体育学部の沿革
創立当初より、建学の精神を基に国漢文学と武道の文武両道教育を行ってきた国士舘。国士舘のあゆみ、それは体育学部のあゆみともいえます。
創立期(第一期)
体育学部の開設からスタートした国士舘大学
1917年に私塾「國士館」として開塾以来、「文武両道」をモットーに国漢文学と武道の二本柱の教育をしてきた国士舘。その国士舘は戦後、短期大学としての短い時期を経て、初代総長柴田德次郎の指揮のもと、新制大学として誕生します。短期大学体育学科が置かれたのは、国文科・経済学科設立の2年後、1956年でした。1958年に国士舘大学が誕生した時は、まず体育学部からのスタートとなりました。このことは、本学が武道に重きを置いてきた伝統のひとつのあらわれです。また、この時期に体育学部が発足したことは、当時不足していた中学校・高等学校の保健体育科教員を養成するという、社会的ニーズにも応えることでした。
第二期
総合大学への歩みと世間への認知
1960年頃には体育館や本部校舎、プール、図書館などが完成し、学園としての機能が整ってきます。また、1961年には、それまで「硬派」的な校風であった国士舘に女子学生が入学するようになりました。1967年まで毎年、学園をあげて参加していた「日本体操祭」では、男女2000名余で「国士」の人文字を形づくる演技が観衆の評判を呼び、新生国士舘を広く印象づけることとなりました。また、体育学部を基盤に、体育学部・工学部・法学部・文学部が続々と開設され、国士舘は着実に総合大学への道を歩んでいきます。
躍進する「スポーツの国士舘」
また、スポーツ成績の上でも、日頃の努力の成果が実り、1960年代には体操競技、新体操、陸上競技、剣道、柔道などの大会で目立った成績が出始めるようになります。1962年には、創立初の学生国際選手として原幸子選手(小林幸子元教授)が日ソ対抗体操競技選手権に参加。1970年代に入ると、レスリング、柔道、剣道でさらに頭角をあらわし、1976年、モントリオールオリンピックで、伊達治一郎選手(当時体育学部助手)が、レスリングのフリースタイルで金メダルを獲得、創立以来初のチャンピオンが誕生しました。
第三期
開かれた国士舘、世界の国士舘
1980年代半ば以降、それまでの「詰め襟のゴツい硬派の男子が集まる大学」というイメージを一新するためにさまざまな改革が行われ、学園全体が明るく自由な雰囲気に満ちてきます。スポーツ成績も順調で、当時助手であった柔道の斉藤仁選手が84年モントリオール、88年ソウルと二度のオリンピックで金メダルを獲得、「世界の国士舘」の名を不動のものとしました。
第四期
「心」を育てる武道学科、「命」を守るスポーツ医科学科
1992年には、多摩市永山の16万平米の敷地にさまざまなスポーツ施設が揃った多摩校舎が完成し、体育学部は世田谷から移転しました。より充実した施設で、のびのびと学べる環境が整い、体育学部のさらなる発展に向け、教育・研究を進めることとなりました。また、2000年には「武道学科」「スポーツ医科学科」の2学科を、2008年には「こどもスポーツ教育学科」を新たに開設しました。「武道学科」では、こころの荒廃を深める現代に武道のもつ精神を活かす指導者を、「スポーツ医科学科」では高齢化社会に対応する高度な救急医療技術をもつ人材育成を、「こどもスポーツ教育学科」では、社会のニーズに応え得る小学校教員養成を目的として日々歩んでいます。これからも国士舘大学体育学部は「国際化」「情報化」を進めながら、これまでの蓄積を活かし、かつ時代の要請に応えるため個性を持った人材養成に取り組んでいます。
人の命を助ける 社会に役立つ スポーツ医科学科
交通事故、火災、遭難現場等、あるいは心肺機能停止傷病者に求められることは、高度な医療技術を持った救急救命士が適切な処置をすることにあります。スポーツ医科学科では、救急医はもとより、外科医、内科医、整形外科医等の医師免許の資格を持った教員スタッフが教育指導に当たっています。加えて、東京消防庁で救命活動実績のある実習助手も指導に当たっています。年間100人以上の救急救命士資格試験合格者を輩出しているのも、その成果です。 意義ある人生を求める学生たちにとって、人の命に最初にふれる救急救命士という仕事は大変やり甲斐のあるものとして写っており、その真剣さが、さらに合格率を引き上げることにつながっています。」