Kokushikan Magazines Feature

「地域連携」とは何かー国士舘と世田谷の「昔」

歴史資料から振り返る「地域連携」

国士舘が世田谷に移転して100余年。史料をひもときながら、国士舘と世田谷の「地域連携」の歴史を振り返ります。

国士舘と世田谷の歩みは、単なる教育機関の所在地という枠を超え、それぞれの発展と深く結びついた「地域連携」の歴史ともいえます。特に1926(大正15)年に創設した国士舘商業学校は、世田谷地域との協同運営という特徴をもつ学校であり、2026年は創設後100年にあたります。
ここでは、当時の史料をひもときながら、国士舘と世田谷がどのように信頼を育み、共に発展してきたかを振り返ります。

世田谷沿線図(1925年5月、「玉川電車沿線案内」部分、国士舘史資料室蔵)
世田谷沿線図(1925年5月、「玉川電車沿線案内」部分、国士舘史資料室蔵)

国士舘の草創期と世田谷の変化

1917(大正6)年11月、東京市麻布区笄町(現港区南青山)の民家に創立した国士舘は、校地を求めて1919(大正8)年、荏原郡世田ヶ谷村(現世田谷区世田谷・現世田谷キャンパス)の地に移転しました。当時の世田谷は、のどかな東京郊外の地であり、校地周辺は農地が広がっていました。国士舘は、吉田松陰の墓所のある松陰神社に隣接する同地を、教育の拠点と定めて、大講堂などを整備して理想とする教育を開始しました。
しかし、この平穏な郊外地としての姿は、1923(大正12)年9月の関東大震災を契機として、次第に変化をみせます。震災で壊滅的な被害を受けた都心部から、地盤が強固で被害の少なかった世田谷へ移り住む人々が急増したのです。この人口流入によって、それまでの農業主体の村落から市街地へと姿を変えていきました。
急速な人口増加に対し、社会インフラとしての「教育機関」の整備は追いついていませんでした。1924(大正13)年当時、この地域には公立の中等教育機関が存在せず、私立学校も極めて少ない状況でした。そのため、高等小学校を卒業した後に進学先がない、あるいは働きながら学びたい、という地域の青少年やその保護者にとって、教育の場の確保は切実な願いとなっていました。この地域社会の期待こそが、国士舘が1925(大正14)年に中学校を、そして翌年に商業学校を創設する大きな原動力となったのです。

梅丘地区側から望む国士舘(1919年、国士舘史資料室蔵))
梅丘地区側から望む国士舘(1919年、国士舘史資料室蔵)
世田谷移転直後の国士舘開校式(1919年、国士舘史資料室蔵)
世田谷移転直後の国士舘開校式(1919年、国士舘史資料室蔵)

大場信續と商業学校の創設

この地域社会の要請を具体化し、国士舘との橋渡し役となった人物が、大場信續(おおばのぶつぐ)です。
大場家は、江戸時代から彦根藩井伊家の世田谷領を治めた代官の家系で、信續はその末裔として地域の発展に尽力していました。例えば、1921(大正10)年に世田谷信用販売購買組合(現世田谷信用金庫)を設立し、後の世田谷発展の基盤を整えています。
当初、大場信續は、世田谷に現れた国士舘に対して、「一種の反動団体ではないか」といった偏見を抱いていました。しかし、国士舘が地域の青少年のために開設した「農商補習夜学塾」に講師として関わるなかで、日本の伝統的精神を重視する国士舘の教育理念に深く共鳴していきました。大場が「聞くと見るとは全く正反対」と述べたように、国士舘が掲げる「誠意・勤労・見識・気魄」の理念こそが、これからの世田谷を担う青年に必要であると確信したのです。
1926(大正15)年、大場は国士舘商業学校の創設に奔走します。この学校の特色のひとつに、公的な補助と民間の寄付をあわせた独自の運営体制がありました。大場の呼びかけに応じ、世田谷町、駒沢町、松沢村、玉川村、目黒町、碑衾村の荏原郡西部6カ町村は、10年間にわたり町村費から補助金の支出を行います。さらに大場をはじめとする地域の有力者も、基本金3万円を出資して、運営の財政的基盤を固めました。そして大場は、商業学校の初代校長となり、「真の士魂商才」の教育のため無給で教壇に立ちながら、学校運営にもあたりました。
商業学校は夜間制で、中学校が昼間に使用する校舎を活用することで、効率的な教育環境を実現しました。農業から商業へと移りゆく世田谷において、地域の期待を背負った国士舘商業学校は、まさに「地域連携」の象徴として誕生したともいえます。

商業学校創立相談会(1926年、国士舘史資料室蔵)
商業学校創立相談会(1926年、国士舘史資料室蔵)
校長大場信續(国士舘史資料室蔵)
校長大場信續(国士舘史資料室蔵)

交通網の整備と国士舘

世田谷の変化や商業学校の創設を支えた重要な要因のひとつとして、交通網の整備が挙げられます。これには大場信續の卓越した先見性が、大きく関わっていました。
大場は1920(大正9)年末頃から、「玉電」の愛称で知られる玉川電気鉄道の敷設交渉を自ら主導し、三軒茶屋駅から北側への延伸を実現させます。1925(大正14)年に玉川電気鉄道下高井戸線が開通し、「松陰神社前」駅が設けられたことは、国士舘にとって決定的な転機となりました(現東急世田谷線)。鉄道の開通によって、それまで三軒茶屋から徒歩やバスに限られていたアクセスは飛躍的に向上し、都心や沿線地域からの通学が容易になったのです。
この交通の利便性向上は、その後の生徒募集の範囲を世田谷周辺だけでなく、都内広域、さらには神奈川県方面へと広げました。
商業学校の生徒には、昼間は都心の官公庁や企業・商店で働き、夜間は鉄道を利用して世田谷へ通うという自活的な勤労青年も多くみられました。昭和初期には、横浜や厚木方面から通学する生徒もいたことが、当時の史料から読みとれます。
このように、鉄道の開通によって世田谷は「郊外の農地」から「教育と文化の住宅地」へと進化を遂げ、国士舘はその中心的な存在として、地域と共に歩むこととなりました。100年を数える地域連携の歴史は、今なお国士舘の世田谷キャンパスに息づいています。

夜間の国士舘校舎(1940年頃、国士舘史資料室蔵)
夜間の国士舘校舎(1940年頃、国士舘史資料室蔵)
商業学校の珠算授業(1940年頃、国士舘史資料室蔵)
商業学校の珠算授業(1940年頃、国士舘史資料室蔵)


国士舘史資料室 熊本好宏


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