国士舘大学の第2次及び第3調査は、インガラ地区の南側に広がる平地で行われた。この地区のほぼ中央にある低い遺丘は、英米合同調査隊が既に発掘調査しており、そこでは、「蒲鉾形」日干しレンガが使われていたので「プラノ・コンヴェックス・ビルディング」と呼ばれるに至った、平面プランにおいてV字形の厚い壁をもつ特殊な建物が発見されている。しかし、その周囲に広がる広い平地はかって調査されたことがなく、それが、この場所を次の調査地として選んだ理由の一つであったといえる。第2次調査はちょうど雨期に入りかけたときであったので、この広い平地の地表面全面に、湿った土の無数の線がある一定の平面プランをなしてかなり鮮明に現れていた。それは、降雨の後の地表面の乾き具合の差異によって生じる現象であった。つまり、日干しレンガなどに用いられる粘土質の土は通常の土壌の土に比べ乾きが遅いため、下に日干しレンガ積みの壁がある地表面上では、土が湿った状態を保ち続ける場合が多いのである。調査では、表土剥ぎを行い、それらが確かに下方に埋没する建物群の残存壁の上面を示すラインであることを確認、建物群の壁は初期王朝時代特有のプラノ・コンヴェックス型日干しレンガで造られていることも明らかとなった。このことから、この区域には初期王朝時代の建物が広範囲に広がり、その広がりは一つの町並みとして捉えることができることがわかった。表土剥ぎをするだけで容易に、この町並みの平面プランを明らかにできる場所であることは疑う余地もなかった。英米合同調査隊が発掘した「プラノ・コンヴェックス・ビルディング」は初期王朝時代第IIIA期(前2400年~前2500年)から第IIIB期(前2500年~前2335年)のある時まで使われた建物であると推定されているが、その周囲に広がる町並みの建物も、おそらく同一時期のものであろうと思われる。国士舘大学の調査では、下方に埋没する建物群より新しい墓や表土中に散在する断片的な遺構なども発見されているが、それらは、ここにあった町自体が放棄された後の初期王朝時代第IIIB期のある時からアッカド時代にかけてのものであると考えられている。調査が再開されることになれば、キシュ遺跡の一つの広大な区画における初期王朝時代の「町並み」の全貌が、言い換えれば、正にメソポタミア文明の都市計画の様相が明らかになるであろう。
- ウハイミル地区、「赤い」ジッグラト
- プラノ・コンヴェックス建物地区、
プラノ・コンヴェックス型レンガ壁の出現
キシュ遺跡調査、主要参考文献
松本健「キシュ発掘報告、1988-1989」『ラーフィダーン』第12巻(1991)、他、『ラーフィダーン』第23巻(2002)、第25巻(2004)に掲載。