テル・ジガーンの東北東、ティグリス河から約2km離れた地点にあった、二つの隣接した低い遺丘(A区、B区)からなる、単一時期の遺跡である。この遺跡の発掘調査では、1930年代にアメリカの調査隊が発掘した、北イラク、モースルの北東約25kmの地点にある遺跡テペ・ガウラのXI-IX層に年代上匹敵する住居址が発見された。ガウラ遺跡のそれらXI-IX層とその下層のXIA/B層によって代表される時期は、俗にガウラ期と呼ばれてきたが、今では「北方ウルク前期」あるいは「銅石併用時代後期第2期」と呼ばれることが多い。年代的には、前4200/4000年~前3800/3750年に相当する時期である。ムシャリファでは、この時期のなかでも前4000年~前3800年の間のある時に、そこに日干しレンガの建物が造られ生活が営まれていたことが明らかとなっている。この後、北メソポタミアは「北方ウルク中期」(「銅石併用時代後期第3期」)というように在地系文化の発展をみる時期を経て、南メソポタミアのウルク文化が波及してくる時期(北メソポタミアの「ウルク中期」と「ウルク後期」)をむかえるのだが、正にムシャリファは南メソポタミアとの文化的接触期(「銅石併用時代後期第4~5期」)以前とウバイド終末期(「銅石併用時代後期第1期」=ガウラXII層)との間の時期の、北メソポタミアの様相をうかがうことができる数少ない遺跡の一つとして、前4千年紀のメソポタミアの研究史上重要な情報を提供するに至った。
この遺跡のA区では、2層に重なる二つの主要建築層が確認された。上層の建物址では、一家屋の全貌が明らかにされている。それは、ウバイド期(「銅石併用時代中期」)から採用されはじめウルク期に盛んになる三列構成の平面プランをもつものであった。家屋は複数の土器窯を備えており、出土遺物は、土器を彩色するための赤色顔料がなかにそのまま残る丸形の無頸小型壺を含む数多くの土器をはじめ、黒曜石製の石器、フリント製のスクレイパー、赤色顔料の付着した多孔質玄武岩製の石皿や同じく赤色顔料が付着する擦り石、土製環状スクレイパー、鉢の口縁部をスクレイパーとして再利用したものなど、この家屋に住んでいた人が土器作りを専業としていたことを示す証拠となるものであった。そのことは、家屋の西側に深く大きく掘られた穴のなかに、大量の灰が捨てられていたという事実によっても裏付けられた。
また、特筆に値するのは、家屋の外の石敷きの上で「ハット・シンボル」あるいは「スペクタル・アイドル」と呼ばれる土製の「覗き穴眼」の偶像が発見されたことである。これは、北メソポタミアの「ウルク中期」の後期から「ウルク後期」にかけて盛行した「アイ・アイドル」と呼ばれ眼そのものを極端に誇張した、アラバスターなどの石製、奉納用「眼の神像」の前身だと考えられているものである。数多くの石製「眼の神像」を出土したシリア、ハブール川上流域の遺跡テル・ブラクのいわゆる「眼の神殿」は考古学史上有名だが、ブラクでも「眼の神殿」よりも古い層から「覗き穴眼」の偶像が出土している。近年、「覗き穴眼」とするものは、「偶像」ではなく、織物をつくる地機の支えとして使われたものではないかという意見もでているが、その見解はまだ憶測の域をでるものではない。もしも、「偶像」であったならば、ムシャリファにおいて一般住居址から出土したという事実は、その偶像崇拝が民間宗教であった可能性を高めよう。しかし、その遺物についての解釈はまだ議論の余地を残す問題として、我々の前に立ちはだかっている。
ムシャリファなどから出土する「北方ウルク前期」の土器は鉢の口縁内面に舌状垂舌文などの単純な文様を施したものが多い。また、この時期の土器のなかでも目を引くのは、型に入れられて作られたと考えられる大量生産型の、「ワイド・フラワー・ポット」あるいは「東方ジョバ・ボウル」と呼ばれる鉢形の土器である。この土器は器壁外面が凹凸状で、器壁内面がスムーズで球面状を呈する粗製土器であり、ムシャリファではこの種の土器が大量に出土した。同じころ、南メソポタミアでは、「ベヴェルド・リム・ボウル」と呼ばれる、器壁外面が凹凸状で器壁内面底部に指の圧痕を残す、型押し作り大量生産型の、外斜傾口縁の鉢形土器が生産されていたが、それは、北メソポタミアでは後にウルク文化の波及とともに在地系の「ワイド・フラワー・ポット」に取って代わることになる土器なのである。
A区のこの上層の家屋は、下層の建物が放棄され、そして地ならしされた後に、その上に建てられたものであったが、発掘時、下層の建物とは異なった状況を呈していた。下層の建物の床上には遺物が皆無であったが、この上層の建物の床上では土器が壊れたそのままの状態で見出されたのである。つまり、下層の建物は何かしらの理由で建て直しを余儀なくされるに至ったものであろうと考えられ、一方上層の家屋の状況は、家屋のなかの物を持ち出すことができないような不慮の出来事によって突然放棄されたことを物語っていた。
他方、B区では、A区と同一時期の、1mの厚さの壁を擁する大きな建物の一部が発見された。A区の下層の建物と同時期であることは疑いない。しかし、A区の上層の建物の使用時期にB区の建物が存続していたかどうかは不明で、その用途も明らかになっていない。ただ、このB区の発掘で興味深いのは、建物の埋土の上方のある面で、土器製作用の回転台として使われたと考えられる完形の脚付器台が発見されたことである。正に、この時期は型押し作り大量生産型の土器と、回転台の使用による土器製作によって特徴づけられる時期で、ロクロが出現する準備段階にあった時期であるともいえるのである。
その後の「ウルク後期」、北メソポタミアでも、南メソポタミアのウルク後期初頭に発明された絵文字が使われるようになっていく。従って、ムシャリファは文化から文明への胎動期の直前の時期の遺跡であるといっても過言ではあるまい。
テル・ムシャリファ遺跡、主要参考文献
H. Fuji(i ed.)“, Working Report on the First Season of Japanese Archaeological Excavation in the Saddam Dam Salvage Project”, in The State Organization of Antiquities and Heritage, Baghdad(ed.), Researches on the Antiquities of Saddam Dam Basin Salvage and Other Researches(1987).