建設 -- 創立の趣旨を体現

1917(大正6)年、麻布区笄町(現・港区南青山)の地に創立した国士舘は、新たな校地を求めて、1919年に松陰神社に隣接する現在の世田谷の地に移転します。大講堂はこの時に建設した建物です。
創立者柴田德次郎らが掲げた国士舘創立の趣旨は、伝統文化を重視して心身の鍛練と人格の陶冶をはかる真の教育によって、未来の社会を担う優れた人材「国士」を養成することにありました。大講堂はこの創立の趣旨を反映し、あえて西洋風の外観を避けて、入母屋造の大屋根をもつ、日本の伝統的な寺院建築の意匠を採って建設されました。折上格天井の内部には108畳敷の大空間を備えました。世田谷移転時の校舎整備費のうち、約5割にあたる2万円を大講堂に費やしたことからも、そのこだわりがうかがえます。

大講堂の上棟式(1919年7月)

役割 -- 当初は教室

大講堂は完成当初、おもに講義の場として使用されました。まさに「講堂」です。ここで当時の学生たちは、畳に座り机に向かって勉学に励んだのです。頭山満・渋沢栄一・中野正剛など、多くの名士による講義・講演もここで行われました。
その後、国士舘の発展とともに、しだいに校舎が整備されたこともあり、大講堂は教室としての役割を終えて、さまざまな式典や講演会などに使用されるようになりました。

大講堂での阿部秀助講義(1921年頃)

変遷 -- 大禍を免れ、約100年

大講堂は、1919(大正8)年の完成以降、大きな災害を免れ、また改修工事を経て現在に至っています。1923(大正12)年9月に発生した関東大震災は、東京や横浜の都市部を中心に、甚大な被害をもたらしました。幸いにも世田谷地域の被害は少なく、国士舘は都心からの避難民を収容するために、大講堂などの施設を開放しました。財団法人時代の国士舘初代監事を務めた森俊蔵の日記には、家族とともに大講堂へ避難したことが記されています。
太平洋戦争末期の1945(昭和20)年5月25日、米軍のB-29爆撃機による大規模な空襲で、東京は焼野原となりました。世田谷周辺にも空襲があり、国士舘のほとんどの校舎が焼失しましたが、寮に起居していた学生と教職員の消火活動によって、大講堂は焼失を免れました。このとき消火に努めた剣道師範小川忠太郎や職員東木誠治の奮闘エピソードが残っています。
その後、1958年頃と1982年頃に、屋根の葺替えや外装・内装の改修など大規模な修繕工事を行いましたが、旧材を活かしつつ行ったため、柱や梁などの多くは建設当初のまま現存しています。関東大震災や東京大空襲などの大災害を経験してきた大講堂は、国士舘と地域を見守ってきた歴史の証人であり、これからもその発展を見守り続けていくことでしょう。

鬼瓦の改修工事(1982年12月)