1917(大正6)年、創立者柴田德次郎をはじめとする青年有志が集い、「活学を講ず」の宣言とともに東京市麻布区笄町(現港区南青山)に私塾「國士館」を創立しました。
人間形成を重んじる教育をうたい、国家社会に貢献する「国士」の養成を目的とする国士舘は、1919年に現在の世田谷へ移転。以降、中学校・商業学校・専門学校などを創設し、戦後は1948(昭和23)年に高等学校、1953年に短期大学を設置、1958年には大学を創設して体育学部を設けました。現在までに6学部を増設して7学部となり、大学院には1965年より各研究科を設けて、現在10研究科を擁する総合大学として発展しています。
草創期 1917-
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国士舘の創立
1917 大正6年1913(大正2)年、福岡出身の早稲田大学の学生らを中心に、後年、国士舘の母体となる青年大民団が結成されます。若き青年たちは、自らの修養と同世代への啓蒙によって、社会の改良を目指し、機関誌『大民』の発行など言論による活動を展開しました。
この活動の中から、1917年11月4日、弱冠26歳の柴田德次郎を中心として、麻布区笄町(現港区南青山)の民家に国士舘が創立しました。創立にあたって、柴田らは「活学を講ず」を宣言して「国士舘設立趣旨」を発します。その趣旨には、当時の知識偏重の教育を批判して、徳性の涵養を重視しつつ形式を超えた「活学」を講じ、社会の礎となる「真智識」人の育成を謳いました。さらに国士舘の教育を通して、明治維新期の「松陰塾」のように「大正維新」を図り、社会の改良を行うと述べています。国士舘開校式(1917年11月) 国士舘設立趣旨(1917年11月) -
世田谷への移転
1919 大正8年私塾国士舘は、徐々に塾生も増え、麻布区笄町の民家では手狭になってきたため、新たな校地の確保を計画します。当初は吉祥寺への移転計画を進めましたが、世田谷の松陰神社で催した「国士祭」を契機に計画を変更して、松陰神社の隣接地に校地を定めました。
吉田松陰の松下村塾を敬慕していた国士舘は、1919(大正8)年11月、荏原郡世田谷村(現世田谷キャンパス)の地に移転し、大講堂などを建設して教育の基盤を整えました。
同時に財団法人国士舘を設立し、また昼間開講の国士舘高等部を開設しました。高等部は、「訓練(修身)」「智識(実際)」「材料及発表」の三つの柱からなる学科目を配し、高等教育機関に準じた学科課程を設けました。さらに学生自治による「国士村」制度を設けて、全寮制による共同生活を通じた実践的教育が行われました。
これらの特徴を背景に、私学としての教育の理念や独自の校風が形成され、校章や舘歌、徳目「誠意・勤労・見識・気魄」なども生まれました。なお、移転を予定していた吉祥寺の地には、その後に成蹊学園が移転し現在に至っています。国士舘落成式(1919年11月) 大講堂での阿部秀助講義(1920年頃) -
維持委員会の支援
1921 大正10年若き青年たちの手で運営される国士舘は、創立当初から多岐にわたる支援が必要でした。世田谷移転の際には、柴田の出身地・福岡県の炭鉱事業主である麻生太吉などから資金援助を受けましたが、国士舘運営の維持を図るためには継続的な支援が欠かせませんでした。
このため国士舘は、1921(大正10)年7月、子爵栗野慎一郎を会長とする国士舘維持委員会を発足させます。維持委員には、頭山満、野田卯太郎、清浦圭吾ら15名が名を連ね、後年には渋沢栄一や徳富蘇峰(猪一郎)らも参画しました。
近代日本の形成に尽力してきた彼らは、それぞれの人脈を介して国士舘への賛同者を募り、その運営を資金面でも支援しました。例えば渋沢栄一は、1922年4月に突然、国士舘を訪れ、自ら学内を視察した後に維持委員に加わります。大講堂の壇上に立った渋沢は、「元来、教育は智慧と精神と相並んで向上し、進歩しなければならぬもの」と述べ、国士舘に期待を寄せました。
維持委員会の支援によって、1928(昭和3)年に毛利家から校地東側の用地(現高等学校・中学校校舎及びグラウンド)を取得するなど、国士舘は次第に発展を遂げていきます。長老懇談会(1926年6月) 国士舘鳥瞰図(1931年頃) -
中等教育機関の創設
1925 大正14年国士舘は、1922(大正11年)に中等夜間部(2年制)を設け、翌年には昼間開講の中等部(4年制)を開設し、世田谷地域の青少年に向けた中等教育を開始しました。そして1925年4月には、初めて法令に基づいた国士舘中学校(5年制)を創設します。
中学校の学科課程は、国語・漢文のほか、外国語(英語)や博物、また文部省の規定より週2時間多い体操・武道といった学科目で編成され、文武両道の教育が行われました。あわせて1925年9月頃には、木造2階建の中学校校舎も整備しました。
さらに1926年4月、世田谷地域との協同運営による夜間開講の国士舘商業学校(4年制)を創設します。商業学校は、国士舘が中学校校舎など施設・設備を無償提供し、世田谷地域が運営経費を負担するという、特徴ある学校でした。校長には、世田谷代官家の末裔である大場信續が就き、関係の町村長や地域の名士らの協力を得て、勤労青少年への実業教育が行われました。これらの中等教育機関の創設は、教育によって地域に大きな貢献を図るものでした。通学の中学校生徒(1936年頃) 商業学校設立相談会(1926年2月) -
高等教育機関の創設
1929 昭和4年中等教育機関の創設を経て国士舘は、高等教育機関の創設に向けて動き出します。当初は、文科と法科を有する大学創設を構想しますが、財政的負担の少ない専門学校創設へと計画を変更します。
1929(昭和4)年4月、専門学校令に基づいた国士舘専門学校(4年制)を創設し、前文部大臣の水野錬太郎を校長に迎えました。専門学校は、国語と漢文を必修、かつ剣道・柔道のいずれかを専攻する学科編成で、中等教育機関の教員養成を主な目的に掲げました。また創設にともなって、1930年3月頃に専門学校校舎を整備しました。中等学校教員の無試験検定資格については、1933年に剣道と柔道を、1936年に国語を、1938年に漢文の認可を受け、全国の中等教育機関へ教員を輩出することになります。
創設当時、武道を専門的に教授する専門学校は全国でも二校のみであり、特色を持つ学校として高い評価を得ることになりました。全寮制を基本とする専門学校の教育によって国士舘は、文武両道の校風を確立していきました。専門学校校舎(1935年頃) 寄宿舎での学生(1940年頃) -
海外への視座
1930 昭和5年国士舘は、中学校や専門学校の創設に加えて、海外雄飛に目を向けた特色ある各種学校も設置しました。1930(昭和5)年4月には、主にブラジル移民の指導者養成を目的とする国士舘高等拓植学校(1年制)を設置します。校長を務めた上塚司は、政府の移民保護奨励策を背景に、渡航先のアマゾンにアマゾニア産業研究所と称する移住地を確保して、高拓生と呼ばれる卒業生を送り出しました。後年、現川崎市に日本高等拓植学校として独立しますが、その後のブラジル日系社会で活躍する卒業生を計7回輩出しました。次いで高等拓植学校は、1932年の「満洲国」建国を背景に、満蒙科を設けて中国東北部への移民養成を企図します。山田悌一により満洲国に設けられた満洲鏡泊学園への予備教育を行い、卒業生は満州移民の先駆者となりました。
時勢に応じて設けた国士舘高等拓植学校は1934年に廃止となりますが、国士舘が国内のみならず海外にも目を向けたことが見て取れます。高拓生の烏山川工事(『大民』1931年7月) 鏡泊学園校舎(1934年11月) -
戦時下の影響と校舎焼失
1941 昭和16年1937(昭和12)年の日中戦争以降、国内の戦時色は濃くなり、次第に戦時統制の強化が図られます。その影響は教育の場にもおよび、特に1941年以降は、学校報国隊の組織化、修業年限の短縮と繰上卒業の開始、勤労動員の拡大のほか、さらに学徒出陣も開始されて、全国の学校は戦時下の影響を例外なく受けました。
国士舘も大きな影響を受け、例えば専門学校では1941年度卒業者は3カ月繰上、1942年度以降の卒業者は6カ月の繰上措置が採られました。また国士舘商業学校は、1944年に国士舘工業学校へと転換設置を行いました。1945年に入ると授業の通常実施も難しくなりました。
1945年5月、国士舘の周辺も米軍の空襲を受けます。教職員や学生・生徒は力の限り消火活動にあたりますが、戦火を免れたのは大講堂、柔道場、剣道場、寄宿舎のみで、ほとんどの校舎は焼失することになりました。軍事教練(1942年頃) 出征学生の見送り(1944年頃)
大学創設期 1946-
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校名変更と国士舘大学維持委員会の支援
1946 昭和21年占領下時代の日本では、GHQ/SCAPの指導のもと教育改革も行われ、教育基本法や学校法教育法に基づいて新たな教育制度がスタートします。戦禍で校舎を失った国士舘は、創立者の柴田德次郎が公職追放を受けて1946年に学園を離れ、特色であった武道教育は禁止となり、また法人名や学校名を「至徳」を冠した至徳学園に変更するなど、苦難の時代を迎えました。資金難や物資不足の影響から戦後復興はなかなか進展しませんでしたが、新制度に対応して1947年に至徳中学校を設置、翌年には至徳高等学校を設置し、それぞれ旧制度からの移行を進めました。校長鮎澤巌の尽力のもと、残る建物を教室に転用しながら学校運営の継続を図りました。
占領政策の転換によって公職追放がほぼ解除となった1951年、国士舘は政治家の緒方竹虎を中心とした支援を受けて「国士舘再建趣意書」を発し、その再建と大学創設を企図します。その趣旨には、創立以来の伝統として培った文武両道を軸として、「国の常識」に基づいた人材育成を行うと謳いました。1952年8月には実業家の小坂順造を会長とする「国士舘大学維持員会」が発足し、委員に緒方竹虎、有田八郎、石橋正二郎、出光佐三など政財界の名士らが名を連ねて、大学創設へ向けた支援が行われました。至徳学園野球部(1951年頃) 国士舘再建趣意書(1952年5月) -
短期大学の創設
1953 昭和28年GHQによる占領政策の終結を受けて、1953(昭和28)年3月に至徳学園から学校法人国士舘へと名称を復し、また創立者である柴田德次郎は国士舘の運営に復帰して、その後の発展に向かいます。1953年4月には国士舘短期大学を創設して、国文科と経済科(二部)を設置しました(各2年制)。翌年には、国士舘大学維持員会の支援を受け、国士舘再興のシンボルとなる新校舎を正門前に建設します。これにより旧制下にあった至徳専門学校は1955年に廃止しました。
次いで1956年4月、短期大学に体育科(3年制)を増設します。その増設は、前年に企図した大学創設案と占領下で禁止された武道教育の再開を背景として、社会的需要が高まっていた保健体育の教員養成を主眼に置くものでした。体育科の設置に際しては、大学維持員会の支援を受けて、新たに体育館や日本陸上競技連盟公認のグラウンドを整備しました。国士舘大学維持員会(1955年5月) 体育館上棟式(1955年11月) -
国士舘大学の創設
1958 昭和33年1958(昭和33)年4月、創立以来の念願であった国士舘大学を創設し、まず体育学部を設置しました。体育学部設置にあたっては、短期大学体育科から編入学を実施して、初年度には1年次から3年次までの学生が集いました。当初は「専攻実技」の科目名で、陸上競技・器械体操・バレーボール・バスケットボール・剣道・柔道・サッカー・相撲の各競技を配しました。あわせて施設の拡充を図り、新校舎(現5号館)、日本水泳連盟公認の50mプール、鶴川校地の野球場などを順次整備しました。1958年5月27日に催した大学開学式には、来賓として総理大臣岸信介や副総理大臣石井光次郎をはじめ、政界・財界・他大学関係者など約300人が参列し、盛大に挙行されました。
なお大学や短期大学の学生は、定められた学帽と制服を着用しました。また女子学生は、1950年度入学者から見みられるようになりました。大学開学式(1958年5月) 体育学部開学を報ずる新聞(1958年5月) -
総合学園化へ
1966 昭和41年1960年代の日本は高度経済成長期を迎え、また第1次ベビーブームによる大学進学者の急増期にもあたり、これらを背景として全国の大学では規模の拡充が図られました。
国士舘も社会的要請に応えるかたちで、学部学科等を相次いで増設し、総合大学化を図りました。1961(昭和36)年に政経学部を、1963年に工学部を、1964年に政経学部二部を、1966年には法学部と文学部を新設しました。この間、1965年には大学院(政治学研究科と経済学研究科)を創設し、また1963年には高等学校に工業科も設けました。
これらと並行して施設の拡充を図り、世田谷校地では6号館・7号館・8号館・10号館・松陰寮などを、また鶴川校地を整備して9号館や望岳寮なども建設しました。このように短期間の間に総合大学にふさわしい環境を整えるとともに、中学校・高等学校・短期大学・大学・大学院を有する総合学園へと発展を遂げました。
大学の大規模化は「マスプロ教育」や「大学紛争」といった弊害も生みましたが国士舘は独自の教育を貫いて大学紛争とは無縁の時代を過ごしました。7号館建設(1963年) 正門前の学生(1963年頃) -
創立者長逝と学園改革
1973 昭和48年1973(昭和48)年1月、創立者柴田德次郎が没し、国士舘の強い独自性に課題が表出するようになります。また同時期、一部の学生・生徒による暴力事件が頻発したこともあって、学園改革の動きが起こります。法学部教授中村宗雄を委員長とする近代化委員会のもとで、学生の服装自由化、学生指導体制の刷新、運営体制の見直しなど、時代に応じた改善を図りました。
また大学収容定員の適正化を図るため鶴川校地の整備を進め、11号館・13号館・14号館の建設、さらに第3・第4体育館やテニスコートなどの施設も整えました。さらに太宰府市や多摩市に新校地を取得して教育環境の充実を図りました。
これらの整備によって鶴川校地では、1977年度から政経・法・文学部の1・2年次生が、また文学部初等教育専攻と短期大学の全学生が学ぶことになりました。創立者銅像の完成(1977年11月) 制服自由化後の学生(1980年頃)
拡充発展期 1984-
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混乱からの回復と将来計画
1984 昭和59年国士舘は、1973(昭和48)年の近代化委員会による改善案に沿って学園改革を進めましたが、抜本的な諸問題の解消には至りませんでした。次第に学内外から学園運営体制への批判が高まるなか、1983年に大学構内で起きた事件を契機として、教職員・学生による学園改革の機運が一気に高まり、1984年4月には運営体制を刷新することになります。
学園は1984年10月に国士舘諸規定整備委員会を発足させ、運営の基盤である諸規程の再整備を行ったうえで、創立以来の基本的な理念は維持しながら学園組織の大改革と財政の健全化を図ります。改革の成果を得た国士舘は、1985年5月に国士舘将来計画委員会を発足させ中長期的な将来計画を定め、教育・研究の組織改革や施設・設備の整備を全学的に実施していきます。
これらの学園改革は、創立の精神や教育方針などの独自性と強く結びついた事柄も対象となり、容易な道程ではなかったものの、全学的な取り組みで新たな国士舘像を描くことになりました。また、バブル好景気や第2次ベビーブーム世代による進学率急増などの社会状況も、混乱からの早期回復とその後の事業展開を後押ししました。将来計画委員会(1987年5月) 志願者増となった入学試験(1992年2月) -
多摩校地と体育学部移転/太宰府校地と福祉専門学校
1992 平成4年1987(昭和62)年に策定した国士舘将来計画は、1997年に迎える創立80周年を目途にした学園の将来像でした。事業のひとつとして1992(平成4)年、大規模な多摩・小野路校地(現多摩キャンパス)の整備とともに、体育学部の移転を実施しました。移転には、教室・管理棟、武道棟、食堂棟、全天候型トラックの陸上競技場の整備のほか、体操場・トレーニングルーム・レスリング道場などを含む体育館棟を建設し、さらに翌年には教室・研究棟を完成させるなど、関連施設の充実を図りました。
さらに、福岡県内の太宰府校地では実習棟などの整備を行って、1995年に国士舘大学福祉専門学校(2年制)を創設します。1970年頃の校地取得から同校地は、その用途決定に紆余曲折を経ていましたが、国士舘将来計画の一事業として進展をみました。関係者の協力を得て設置した福祉専門学校は、福岡市内で同種の学校が急増した影響から2007年に廃止となりますが、介護福祉士養成校の先駆けとなりました。多摩キャンパス開設(1992年) 福祉専門学校の授業(1995年) -
中学校・高等学校の男女共学化
1994 平成6年中学校・高等学校は、1964(昭和39)年以降、専用校舎として8号館を使用してきましたが、1987年策定の国士舘将来計画を受けて、新校舎の建設と男女共学化が行われました。
これを見据えて1987年から順次、中学校・高等学校の制服をブレザー・スラックス・ネクタイへと変更します。そして1994(平成6)年4月には、新たな中学校・高等学校校舎がグラウンド北側に完成し、また男女共学制や週5日制を導入しました。初年度は中学校に23名、高等学校に48名の女子生徒が入学し、ブレザー、スカート、リボンタイの制服姿で学びました。
また社会のニーズに応じて、高等学校では1994年に定時制商業科を停止して定時制普通科を新設し、翌年には工業科に情報処理科を設置、2004年には通信制課程を新設するなど、教育組織を改めながら文武両道を軸とする教育を進展させました。中高の男女共学化(1994年4月) 選抜高校野球初出場(1993年2月) -
創立80周年記念事業
1997 平成9年創立80周年記念事業の一環として、鶴川(現町田)キャンパスでは1992(平成4)年にカフェテリアや図書館を有する鶴川メイプルホールが完成します。世田谷キャンパスでは、正門の役割も担ってきた3号館(旧短大校舎)の解体とともにブロック塀を撤去して、1998年に地上6階地下1階建の中央図書館を竣工、あわせて正門周辺も整備しました。また同年には中学校・高等学校用の体育・武道館も完成しました。これらの事業により、教育・研究の環境は大きく改善され、また地域に開かれたキャンパスとしてイメージも一新されました。
1997年11月、来賓に政界や海外協定校から関係者を迎えて、創立80周年記念式典及び祝賀会を開催しました。これを機に、「K」をデザインしたコミュニケーションマークを新たに制定し、従来の楓(紅葉)の校章をオフィシャルマークとしました。また2002年には、中央図書館西側に1号館を竣工して事務部局を集約し、南側には憩いの広場としての見学の森を整えました。中央図書館(2002年頃) 創立80周年式典(1997年11月) -
学部学科の再編と大学院の拡充
2000 平成12年大学設置基準の大綱化や臨時的定員増後の恒常化など政府の高等教育政策を背景に、国士舘は、学部学科の増設・再編と大学院の拡充を図ります。1993(平成5)年において大学は6学部14学科、大学院で2研究科でしたが、2013年には7学部14学科、10研究科の教育組織となり、多様化する時代のニーズに応えていきます。
大学においては、2000年に体育学部に2学科を増設、2001年には法学部に1学科を増設、2002年には短期大学廃止を決定して21世紀アジア学部を新設します。2003年から政経学部二部の募集を停止して政経学部に統合・再編を実施し、2007年には工学部を理工学部に改組しました。さらに2008年には体育学部に1学科を増設、2011年に経営学部を新設しています。
大学院では、1994年に工学研究科を、翌年に法学研究科を、1997年には経営学研究科を新設します。2001年には人文科学研究科とスポーツ・システム研究科を設け、2006年には総合知的財産法学研究科とグローバルアジア研究科を設置しました。次いで2010年に救急システム研究科を設置して、それぞれの専門領域を深めた人材を輩出しています。21世紀アジア学部祭(2002年) スポーツ医科学科の救急処置実習(2006年5月) -
梅ヶ丘校舎の完成と修学環境の整備
2008 平成20年2005(平成17)年、世田谷キャンパスに隣接する旧都立明正高校跡地を取得し、この用地整備を創立100周年に向けた中核事業と位置づけて、まず翌年に国士舘大学地域交流文化センターを北西側に建設しました。そして2008年には、用地北東側に地下1階地上10階建の高層棟と地下1階地上3階建の低層棟からなる34号館(梅ヶ丘校舎)を竣工しました。これにより、政経・法・文の学生は世田谷キャンパスで4年間の修学が可能となり、全学部で同一キャンパス修学の体制を整えました。
このほか世田谷キャンパスでは、第2体育館跡地に「心とからだの健康」をテーマとするメイプルセンチュリーホール(MCH)を2012年に建設しました。2009年に鶴川から改称した町田キャンパスでは、東日本大震災で被災した9号館跡地に、多用途のスポーツフィールド「中央広場」を整備して、学生の憩いの空間としました。また多摩キャンパスでは、旧セミナーハウス跡地に、トレーニング施設を備えたメイプルセンチュリーセンター多摩(MCCT)を2016年に整備しました。創立以来の文武両道の理念に沿ったこれらの施設整備によって、学生の修学環境をより充実させました。34号館(梅ヶ丘校舎)(2008年1月) MCCT(2016年9月) -
創立100周年に向けて
2017 平成29年2002(平成14)年の学校教育法改正以降、18歳人口の急減など社会的変化も見据えて大学認証評価や教育の質保証などが求められ、また私学としての明確な特色が必要とされるようになりました。国士舘は、2017年に迎える創立100周年に向けて、諸施設の整備とともに私学としての特色の確立を図ります。2009年に掲げた創立100周年記念事業の基本方針には「学生・生徒への愛情を優先した学園づくり」を挙げ「総合的な人間力を高める教育体制を確立」すると謳います。この方針に沿って2013年には「防災教育」を柱のひとつに掲げ、全学必修の防災総合基礎教育を開始しました。また2015年に発足させた国士舘教育総合改革検討委員会は、国士舘教育のブランド化を推し進めるものでした。
このほか創立100周年の記念事業として、百年史編纂、大講堂の文化財登録、「国士舘100年祭」と称した全学公開イベントなど、国士舘の特色や学術的成果を社会に示す事業を実施しました。2017年11月4日には、ご台臨された彬子女王殿下をはじめ国内外の来賓を迎え、創立100周年記念式典及び祝賀会を挙行しました。全学必修の防災教育(2015年4月) 創立100周年式典(2017年11月) -
コロナ禍を超えて
2022 令和4年2020年(令和2)年1月に起こった新型コロナウイルス感染症の世界的流行によって、日本では緊急事態宣言が発令され、それまでの社会的生活は一変しました。国士舘では、学生・生徒の安全確保を第一として、同年の卒業式や入学式は中止し、4月初旬にキャンパスを一時閉鎖します。5月初旬には大学の春季授業はオンラインで、中学校・高等学校の授業は分散授業で再開し、また全学生・生徒への緊急給付金も支給するなど対策を採ります。翌年7月にはワクチンの大学拠点接種も開始し、医師免許や救急救命士資格をもつ教職員らが対応にあたりました。感染対策によるキャンパス入構は、2023年5月まで制限されました。
この間、町田市野津田に用地を取得して2020年に楓の杜キャンパスを開設し、さらに多摩市南野にも用地を取得して2022年に多摩南野キャンパスを設けました。また2022年度に大学には副専攻制度を導入し、防災リーダー副専攻とAI・データサイエンス副専攻を設けるなど、さらなる教育の進展を図っています。コロナワクチン拠点接種(2021年7月) 楓の杜キャンパス(2020年8月)