国士舘創立者柴田德次郎(1890-1973)

①若き創立者 -- 理想を追い求める

1890(明治23)年、福岡の貧しい農家に生まれた柴田は、勉学を志して15歳で上京し、牛乳配達など苦学のすえに、1915(大正4)年に早稲田大学専門部を卒業します。当時の日本は、明治維新後の急速な近代化により、政情不安や貧富拡大などの社会問題が生じていました。柴田は、こうした社会を改めたいとの考えから、次の時代を担う青年層への教育に着目し、同世代の同志とともに1917(大正6)年11月、国士舘を創立します。この時、若干26歳。
多くの私立大学が一財をなした著名人の手で創設される点を考えれば、大変めずらしいことであり、若き柴田の信念をうかがえます。

若き日の創立者柴田德次郎

②時代と人をつかむ -- 「真の智識人」の育成

創立にあたり国士舘は、宣言「活学を講ず」を発し、新たな教育の理想を「国士舘設立趣旨」に掲げました。その趣旨は、従来の形式的な近代的学術の教授のみならず、軽視されつつあった伝統文化に基づく人格形成を重視する教育にありました。国士舘の教育によって、次の時代を担う「真の智識人」を育成し、より良き社会をつくることを目指したのです。
若き柴田ら同志は、この理想の実現に向けて奔走し、頭山満、野田卯太郎、渋沢栄一、徳富蘇峰らをはじめ、明治期の政財界で活躍した有識者たちから多くの賛同と支援を得て、しだいに教育の環境を整えていくのです。

宣言「活学を講ず」(『大民』1917年)

③生涯、教育者として -- 独自の教育を実践

柴田は、国士舘を創立後、約60年にわたって教育の場に立ち続けます。国士舘は、1958(昭和33)年に国士舘大学を創設して以降、学部・学科を次々に新設し、総合学園へと発展を遂げました。学生・生徒数は増加し、柴田も学園運営に多忙を極めますが、その状況でも毎週、学生・生徒に「舘長訓話」を行いました。訓話の内容は、歴史や理念・社会情勢・日常の礼儀作法など多岐にわたりました。また、卒業予定者の一人ひとりに「卒業面接」を行い、学生の修学度を自ら確認して社会に送り出しました。これらは創立以来の理念の根幹である人格形成を重視したものでした。
晩年、脳溢血を患いながらも登壇した際は、開口一番「学生諸君、会いたかったよ」と述べ、学生への深い愛情を表しました。その場にいた学生は皆涙したといいます。
柴田は、1973(昭和48)年1月26日にその生涯を終えるまで、学生・生徒と直接向き合い、教育に心血を注ぎ続けたのです。
現在、祥月命日の1月26日には、創立者を讃えて世田谷キャンパス内の墓所で法要行事を行っています。1977(昭和52)年に建立された大講堂前の創立者銅像は、国士舘の理念を受け継ぐ学生・生徒を見守っています。

学園入学式での柴田德次郎(1965年)
舘長訓話(1965年)