文学部の想像"

編集部: 国士舘大学の文学部で、学生たちは何を学んでいるのでしょうか?

 国士舘大学の文学部には、「教育学科」「史学地理学科」「文学科」の3つの学科があります。私が所属するのは「文学科」で、主に日本文学・文化コースの授業を担当しています。
 文学部は2016年に創設50周年を迎えましたが、より魅力的な学部とするために、これまでの伝統と資産を継承しながら、平成30年度入学生より現行の編成を3学科5コース(「教育学科」には教育学、初等教育の2コース、「史学地理学科」には考古・日本史学、地理・環境の2コース、「文学科」には日本文学・文化の1コース)に再編します。今はその改革に学部を挙げて取り組んでいるところです。文学部の各コースは、それぞれが個性的で専門性の高い学問領域を持っています。しかしながら、5つのコースが単に寄せ集められているわけではありません。平成31年度編成予定の新しいカリキュラムでは、それぞれの専門領域で深く学ぶその一方で、多様な広がりを持つ周辺領域との有機的な繋がりを意識しながら知の世界に遊ぶことができます。これが国士舘の新しい文学部で学ぶ意義だと考えています。学生たちには徹底した少人数教育の中で専門的知識と幅広い教養を身に付けてほしいと願っています。その学びによって、社会に出て最も役立つ「考える力」や「生きる力」を身に付けていくことができるでしょう。

編集部: 先生はどのような授業を担当されているのでしょうか?

 私が担当しているのは、3年生と4年生の2つのゼミと、「国文学」「日本語学概論」「日本文学・文化入門」といった科目です。「国文学」は全学部共通の総合教育科目で、私以外の先生も担当されますが、私は『源氏物語』を学生と一緒に読むという授業をやっています。理工学部や政経学部など、他学部の学生も受講しているので、自分の専門である平安時代の日本語の諸相を伝えながら、古典文学を身近なものとして読み解くことを意識しています。
 「日本語学概論」は日本文学・文化コースの必修科目です。日本語とはどういう言語なのかという基本的なことについて幅広く学んでもらうものですが、単に知識を暗記するのではなく、提示される言語的事実に対して「なぜそうなのか」ということを常に考えてもらうようにしています。「日本文学・文化入門」は同コース1年生向けのいわゆる導入教育のための科目です。日本文学や日本語、日本文化をどのような観点から学ぶことができるのか、コースに係わる専任教員がオムニバス形式でそれぞれの専門領域について語っていきます。

編集部: 「日本語学」がご専門とのことですが、どのような研究をされているのですか?

 日本語学は、時代にせよ内容にせよ、非常に幅の広い学問ですが、私は平安時代から鎌倉時代の頃の日本語のうち、特に「語彙」や「表現」に関わる研究を専門としています。『源氏物語』の「本文」に関する研究もそのひとつですね。
 「語彙」については、「こころぼそし」や「なやむ」「わづらふ」などの誰もが知っているような言葉の含み持つ微妙なニュアンス(表現価値)を考えています。たとえば、「まよふ」と「まどふ」という言葉があります。「まよふ」は複数の選択肢から一つを選び取る決断がつかないことを表していて、選択を誤る可能性も含み持っています。それに対して、「まどふ」ははっきりとした選択肢がなく、どうしてよいのか判断がつかないことを表すものであり、双方は明確に区別されていました。ところが、平安時代末になると両語は混同され違いが見出さなくなっていきます。また『古今和歌集』では「まどふ」は主に男性歌にのみ出現するというジェンダーに係わる側面を持っています。これは当時の性差のあり方を強く示唆しています。しかし、『源氏物語』ではこれを女性に使用させていて、あえて文化的規範から脱していこうとする新しさを見せています。こうしたある種の言葉の「綾」のようなものを見出していくわけです。
 ただ、『源氏物語』でもいろんな写本を読み比べてみると、書き手がそれこそ「惑って」しまって、言葉ががらりと入れ替わっていることがあります。時代が経つに連れて、微妙な言葉のニュアンスが失われ、あるいは理解されなくなって、本文が混乱するということが起きています。同じ箇所なのに、なぜこちらの写本とあちらの写本で使われていることばが違うんだ、ということが起きる。こういった言語的な事実を日本語史を睨みながら厳密に捉え、その背景にどんな理由や事情があるのかといったことを学問的に突き詰めています。

編集部: 先生が担当しているゼミで、学生たちはどんなことに取り組んでいるのですか?

 3年生のゼミでは、主に卒業論文を書くために必要となる先行研究のまとめ方やパソコンを使っての大量のデータ処理など、基礎的な方法の修得を目指します。4年生になると、各自が問題意識を持って取り組んでいる領域の文献や調査結果についてまとめていき、何を調べどんなことを考えているかといったことを発表してもらっています。
 それから4年生は、卒業論文とは別に、全員で取り組む「共同研究」を行っています。これは毎年テーマを決めて取り組んでいくもので、去年と今年に関しては、作家の村上春樹氏の翻訳作品における「役割語」の研究を進めています。
 「役割語」とは、一般的にあまりなじみのないものですが、日本語学の分野ではここ10~15年ぐらいで注目されている研究テーマです。たとえば「それでよくってよ」という言い方をすると、どんな人物が想起されますか? そう、品のいい女性の姿が思い浮かびますね。逆に「ワシが食べたのじゃ」みたいな言い方をするとどうでしょう。さっきの女性とはまるで違う人物が想起されますね。このように、ある種の表現を聞いた時に特定の人物像を思い浮かべることができる言葉、逆にこのキャラクターだったらこういう物言いをするだろうという言葉を、「役割語」と呼んでいます。
 村上春樹氏の作品には「役割語」が多く出てきます。今年度の4年生が研究しているのは、『グレート・ギャツビー』というアメリカの作家フィッツジェラルドの小説を村上氏が訳したものです。これをもっと古い1950年代の野崎孝氏という翻訳家の作品と比べるのですね。村上氏と野崎氏が、同じ箇所をどのような「役割語」を使って訳しているかを調べていくわけです。たとえば一人称でも「私・僕・俺」と日本語には幅があります。昔の翻訳は「私」になっているけれど、村上版では「僕」を使うんですね。また文末が断定調になっているのに対し、村上版では「です」「ます」の丁寧な口調にする。これだけで、語っている人物の年齢や社会的な属性など、読者が受ける印象は微妙に、しかしながら確実に変わってきます。ゼミでは各自が受け持つページを決めて、原文を渡して、その原文からそれぞれの訳者がどのように訳しているかを調べてもらっています。一年間かけてまとめた研究成果は日本文学・文化コースの論集に掲載し、必ず印刷物として残すようにしています。

編集部: 「役割語」ですか。初めて聞きますが、おもしろそうな研究ですね。

 そうなんですよ。なかなかおもしろいでしょう。これは日本語の含み持つステレオタイプの問題と深く関わっています。一種のイメージの産物です。日本語を母語とする者であれば、誰もが自然に体得する経験知のようなもので、村上氏のような世界的な知名度を誇る作家でも、そこから逃れられないところが興味深く思われます。以前には世田谷区に縁のあるものを取り上げようということで、「サザエさん」の役割語を調べたこともありました。長谷川町子氏が登場人物にどんな言葉使いをさせているのかを調査したのですね。
 たとえば、サザエさんは九州出身のはずなのに、九州弁はしゃべりません。マスオさんも大阪出身のはずなのに、大阪弁をしゃべらない。サバサバした中性的な印象の強いサザエさんですが、意外にも「あら?」「〜かしら」などの女性特有の物言いを多く重ねています。これらはなぜだろう、とか。また作品全体では基本的に東京の下町の言葉がベースになっていますが、どういう社会階層のどういう職業の人が下町言葉をしゃべっているのか、とか。彼らの服装や髪型は使っている言葉と連動しているのか、とか。いろいろな観点から調べてまとめていきました。
 こんなふうに日本語学というのは、なんでも研究対象になってしまうんですね。そして重要なことは、『源氏物語』や『古今和歌集』を扱うから立派な研究で、日常的に見聞きする言葉には調べる価値がないということでは決してないという点です。いずれも日本語として等しく研究価値を持っています。研究の対象は身近なものでかまわないし、むしろそういうことを調べて捉えていくことの方が、今の自分たちや社会、文化を知ることに繋がっていくと思われます。

編集部: 先生はアイドルの歌詞を研究なさっているとおうかがいしました。
これはどのような研究ですか?

 まぁ、これは趣味的なものになるのですが、アイドルの歌詞を分析するということをやっています。たとえば、70年代から80年代に活躍した山口百恵さん、松田聖子さん、中森明菜さんなどをたどっていくと、歌詞の作り方が違っているんですね。それぞれのアイドルにキャラクターを持たせるために、本人の資質とは別に歌わせる言葉を変えているのです。
 たとえば、山口百恵さんの歌う言葉は、当時にしてみれば女性っぽさがあまりなく、固い印象がありました。それでも後に現れる安室奈美恵さんなどに比べれば、はるかに「~よ」とか「~ね」という女性らしい表現が入っています。それが90年代以降になると、さらに中性的に変わっていって、最近のAKB48や欅坂46などになると、もはや男性の視点に立って「僕」というふうに歌わせることが多くなっています。もともと憧れや疑似恋愛の対象だったアイドルの存在が、共感するためのものに変わってくるにつれ、歌詞の言葉が変わってきたと考えられます。「私」が「僕」に変わることで、聞き手の男性がその世界に入りやすくなる。次元の違う憧れの対象だったものが変わってきて、同じ目線の高さで、同じ方向を向くようになってきた。まさに共感の世界を歌詞によって演出しているのです。恋人の関係性も、かつては「あなた」と「私」がもっぱらでしたが、近年は「君」と「僕」のカジュアルなものになりました。このように、身近なことのすべてが研究対象になってしまうところが、日本語学のおもしろさなのです。

編集部: 文学の学びというと座学が思い浮かびますが、
教室の外に出ていくこともあるのでしょうか。

 「文学科」の特徴的な学びの一つに、文学に縁のある地を巡る活動があります。活字だけでなく、本物に触れることによって実感してもらう、そのために美術館や博物館をはじめ、さまざまなところに出かけていきます。今年の1年生は江戸東京博物館に行って、それから浅草の町を歩きました。3年生は、やはり浅草にある日本最古の遊園地「花やしき」に行って、そこから隅田川を船で下って日の出桟橋まで行きました。さまざまな文学作品に登場する土地や事物に接して、その空気を肌で感じてほしいという狙いがあります。冬にはコースの伝統的な行事である国立劇場での歌舞伎鑑賞会に、所属する学生と教員の全員ででかけています。また、4年生のゼミでは、卒業論文を仕上げた後に、学びの振り返りという意味で研修旅行に出かけています。私のゼミでは今年は箱根に行きましたが、京都や伊勢などに行くこともあります。それぞれのゼミで毎年学生が自ら行きたい場所を選び、企画を立てています。

編集部: 夏休みの課題に、本屋さんをめぐるというのがあるそうですね。

 それは3年生の夏休みに出す課題ですね。東京には他の地方にはあまりない大型書店がたくさんあります。せっかく東京の大学に通っているのだから、都内の大型書店のことをよく知ってもらいたいと思い、そこがどういうものであるかを調査してくるという課題を出しています。店の立地や内装、本の並べ方、店員の知識、併設のカフェの雰囲気や味、トイレの美しさなど、さまざまなことを自らの興味関心に従って調べてもらっています。
 本を読むことは大切ですが、学生はなかなか読むようにはなりません。だから、無理に本は好きにならなくていい、まずは本屋さんを好きになりなさい、と言っています。書店という場所が好きになれば、自然といろんな本を手に取って読みたくなるからです。さらに書店の具体的なありようを知ることは、人や街や社会を理解することにも繋がっていきます。こちらから書店のリストを示して調べてもらいますが、5店舗でいいというのに、20店舗ほどもまわって調べてくる学生もいます。友人や家族を巻き込んでイベントのように楽しんでくれる学生もいました。
 調査した結果はそれぞれ独自のスタイルで提出してもらいますが、なかには凝ったものもあって、どれも素晴らしいんですね。この書店巡りの課題と共同研究の報告については、学生が卒業した後もずっと手もとに保管してあります。こうやって提出されたものを眺めていると、一人ひとりの学生の顔が思い浮かんでくるんですよ。これだけはもう絶対に手放せませんね。

編集部: 最後になりますが、日本語学の学びを通して、
どのような人材を育成しようとお考えですか?

 私としては、日本語学の学びを通して、事実をきちんと見極める目を養い、一つの考えにとらわれることなく、「想像力」を働かせて、多面的なものの見方ができる社会人を育成したいと思っています。目に見えるものだけでなく、その向こう側にある理由や本質を意識できる人間ですね。もちろん自らの言語生活にも自省的であってもらいたいです。
 文学部の学びは、一部の資格は別にして、そのまま仕事に役立てるというものではありません。そうではなく、ものの見方や考え方を学ぶ場所であり、時間であると考えています。日本語学というのは、良いとか悪いとか、正しいとか間違っているとか、そういうことを単純に考える学問ではありません。あくまでも事実を見つける学問であり、事実を見極めるためにはどういう手続きが必要か、それを学んでいく学問です。
 事実を丹念に調べ上げ、見えているものを正しく把握して、「なぜそうなっているのか」と、その裏側にある理由を想像し考えていく。こういう訓練を積んでいると、いろいろな方向から物事を眺め、本質的な部分に考えを巡らせることができるようになります。自然と独善的な考えや姿勢は反省されますし、他者に対して寛容にもなれます。これこそ、社会で生きていくうえで最も必要な力であり、資質ではないでしょうか。
 自分で物事を調べ、分析し、熟考し、本質を見極める目を持てれば、どんなところに出ても立派にやっていけます。そして、このような「考える力」「想像する力」こそが、いま社会で最も求められているものだと私は思っています。

中村 一夫(なかむら かずお)教授プロフィール

●博士(文学)/大阪大学大学院 文学研究科 文化表現論 日本文学専攻 博士課程修了
●専門/日本語学