文学部の美徳

編集部: 中国語・中国文学専攻で、どのようなご研究をなさっているのですか?

 私が主に研究しているのは、中国の明清時代の文人・文学と日本の漢文小説、それに漢詩作法です。いずれも漢文で書かれた古典を研究しています。中でも興味深いのは、日本漢文小説です。実は、江戸から明治の中頃まで、日本人はけっこう漢文で小説を書いていたのですよ。人々もそれを読んでいました。寺子屋で、小さい頃から論語の素読などをやっていますからね、みんな漢文が読める。たとえば、「日本漢文小説叢刊」という本があります。これは漢文で書かれた日本の小説をまとめたものです。残念なことに、この本を出したのは日本人ではなく台湾の研究者なのです、今日あまり顧みられない漢文小説を発掘・研究しようと、私の恩師が中心になって勉強会を開き、いまでも月1回のペースで続けています。

編集部: 先生は、江戸時代や明治時代の漢詩の研究もなさっておられますね。

 はい。日本では王朝時代から明治にかけて、漢詩が盛んに作られていました。江戸時代は前期・中期・後期の3つに分けますが、前期は主に漢学者たちが余技として漢詩を作っていました。それが中期になると、荻生徂徠などが出てきて、中国の古文辞というのを取り入れ、古代風の文を書かねばならないといったことを提唱します。論語や孟子も、注釈書を通じて読むのではなく、原典に拠ってその時代と心に迫れと。そのためには、まず、言葉を知らなければならない。そして漢詩を作って、昔の人の心情を汲み取れというのです。
 江戸の後期になると、専門詩人が現れてきます。この時代の日本の漢詩は非常におもしろいですね。中国の唐詩風とか宋詩風とかを取り入れながら、自分のスタイルを作っていき、そこに日本的な情緒も織り込んでいくのです。日本の漢詩が高度に発達した時代です。読んでいてずいぶん勉強になります。

編集部: これまで国士舘大学は、漢文教育に注力してきました。その真意はどこにあるのでしょう?

 そうですね。国士舘大学は創立以来、武道や国語の他に、漢文を教育の中心に据えてきました。その真意は、日本を知ることにあると思います。現在の中国語・中国文学専攻の前身は、50年ほど前に誕生した「漢学専攻」です。その誕生に際して、当時の先生方によって「東洋道徳教本」という本が編纂されました。その中身は、論語や孟子を筆頭に、若い学生はまずこれを読むべしという、漢文の名文・名詩を集めたものです。この本の序文で、本学の創始者である柴田德次郎先生が、このようなことを書いています。「漢学を輸入し、その長所を取って日本は文化を形成し、国民道徳を育ててきた。だから、日本の伝統的な国民精神を理解するには、まず漢学の精神を知らなければならない」と。そしてさらに、「漢学の研究は新しい文化を創造し、新しい国民の道を樹立するもの」とも教えています。漢学というのは、中国の哲学思想・文学・歴史・語学・芸術などを総合的に研究する学問ですが、漢文訓読によってそれは日本の古典として、また文化として「日本」を支え育んできました。中国語・中国文学専攻は、その精神を継承しています。

編集部: なるほど、昔の中国を知ることが、日本を知ることにつながるわけですね。

 そうです。しかし、漢学を学ぶメリットは他にもあります。中国という国の本質が見えてくるからです。本学の中国語・中国文学専攻では、中国の文学と哲学を中心に、政治や言語までを幅広く学ぶことができます。全体を「中国学」ととらえ、中国の文化体系を総合的に探っていくわけですね。とくに特徴的なのは、文献資料だけでなく、書道や絵画、漢詩といった芸術をはじめ、天文や地理まで、幅広く学ぶということです。いま、中国は急成長を続けています。その背景にあるのは、4000年の歴史を持つ文化と叡智です。この底力が、現代科学、思想、技術と融合し、中国の知的エネルギーとなっている。それをまるごと、この専攻では学んでしまおうというわけです。つまり、中国文化に精通したスペシャリストを育成するわけです。これからも中国が日本にとって重要なパートナーであることに変わりはありません。中国語を学び、中国の歴史と思想を学び、文化を学ぶ。漢学という伝統ある学問分野は、いま、急成長する中国の知的原動力を探究するために重要な意味を持つ学問となってきています。

編集部: この専攻では、漢詩文創作が必修になっていますね。漢詩はどのようにして学ぶのですか?

 学生は、一・二年次に中国語と漢文や漢詩の基礎を学びます。それで、ひと通り漢文ができるようになってから、三年で漢詩の創作を学びます。当専攻にはゼミというものがありません。一学年30名と定員が少ないので、全員体制でしっかり学生を見ていきます。
 漢詩の授業では、七言絶句というものを作ります。漢詩創作の初心者はここから入ります。七言絶句にはルールがあって、二四不同、二六対、下三連を禁ずなど、いろいろ制約があります。漢字には平仄(ひょうそく)という4つの声調があり、句の二字目と四字目は同じ平仄のものは使えない、二字目と六字目は同じ平仄にする、下三文字が同じ平仄なってはいけないといったものです。このように、いろんな制約をクリアしながら、心に浮かんだ情景を28文字の世界に凝縮する。そこに漢詩の醍醐味があるのです。
 「全国学生・生徒漢詩コンクール」という大会があって、例年クラスのみんなで応募します。今年は佳作が3名と入選が2名出ました。また、多くの学生の応募があったことで、団体奨励賞もいただきました。大切なのは結果ではなく、継続することです。続けていくと、漢詩は必ずうまくなります。そして、これからの人生を豊かにするよき友になってくれます。

編集部: 文化交流で、学生を連れて中国に漢詩を作りに行っているとうかがいましたが…。

 それは「国際大学交流プログラム」の一環で、大学の国際交流課が支援してくれたものです。1999年に、台湾国立中山大学に行ったのが始めてで、その後はほぼ毎年実施しています。2010年は日本学生支援機構(JASSO)から認定され、奨学金を受けて、山西省の太原にある山西大学に行ってまいりました。JASSOの認定はなかなか受けられるものではなく、当交流プログラムの意義が認められたのだと思います。今年は蘇州にある蘇州大学に行き、漢詩の学びを通して文化交流を行いました。
 滞在期間は10日余りです。学生にはまず中国語で講義を受けてもらい、さらに、中国語の会話の勉強や、漢詩について学びます。それからみんなで外に観光に出かけます。観光といっても、ただ名所を歩くわけではありません。いにしえの漢詩に詠まれた場所や史跡を訪ね、当時の空気に浸るのです。実際にその場に行ってみると、やはり違うようですね。学生たちも刺激を受け、インスピレーションが湧いてくるみたいです。そうして滞在期間の間に作った詩を向こうの大学の皆さんの前で発表します。中国に行き、現地の学生や人と触れあい、地元のごはんを食べ、漢詩を詠んで過ごす10日間は、学生にとって得難い経験になるようです。

編集部: 先生は、国士舘大学の生涯学習センターで漢詩を教えてらっしゃいますね。

 はい。生涯学習センターができたとき、何か目玉になるものはないかということで、漢詩の作詩はどうでしょうと私の方から提案しました。そうしたら、それをやろうということで、もうずっと続いています。最初は5~6人だったのですが、どんどん増えて、いまは受講生が20名ぐらいになっています。横浜や八王子から通われている方もいらっしゃいますよ。最高齢は93才の方なんですが、いちばんお元気ですね。年を重ねてから、学生時代に習った漢文を改めて学ぶと、そのよさが分かってくるようです。

編集部: 写真もご趣味とうかがいました。写真はどのようなきっかけで始められたのですか?

 写真をやるようになったのは、高専の時代ですね。もともと天文に興味がありまして、天体写真が撮りたかったのです。長岡高専の寮からすぐの悠久山というところに行って、三脚を立てて、星を撮ったりしていました。いまでも写真はよく撮ります。漢詩を詠みに行くとき、カメラを持って行って、写真を撮ってくるんです。それを家で見ながら、漢詩の構想を練るわけです。写真を撮るのと詩を作るのは、基本的には同じです。対象をどう切り取るかということですからね。写真はレンズで切り取るけれど、詩は言葉で切り取るわけで、互いに共通点があるのです。

編集部: そもそも先生は、なぜ漢文を学ぼうと思われたのですか?

 私は新潟県の生まれで中学卒業後、長岡工業高等専門学校で、化学を勉強しました。きっかけは4年生のときでした。授業で論語を習ったのです。論語といえば孔子でしょう。孔子なんて聖人君子みたいで堅苦しい人だと思っていたのですが、論語を読むと違うのです。たいへんイキイキとした人間が描かれている。それが面白くて、放課後、先生に付いて漢文の課外授業をやっていただきました。その後、就職はせずに、大学に入ってひたすら漢文の勉強をしました。大学には新聞配達をしながら通っていましたが、そこでも先生にお願いして課外授業をやっていただきました。このように先生方によくしていただいたものですから、恩返しの意味もあり、私も国士舘大学に来てから、希望者を集めて放課後に勉強会を開きました。自分がやってもらったことを、学生にもやってあげたいと思いましてね。この勉強会の中から、もっと漢文を学びたいといって、大学院に進んだ学生も出ました。
 いまの世の中は功利主義ですからね。大学に行くのも就職のためという風潮があります。本当は、大学はそんな場所じゃない。私は、学生は四年間、のびのび楽しんでいいと思うのです。その中で、人間としての精神性を高めていけばいい。なんでもかんでも就職のためというのではなく、大学生活で心が豊かになるような、そういう時間を過ごしてもらいたい。人間性が養えれば、おのずと就職もしやすくなると思います。企業は人間を見ているわけですから、付け焼刃で就職活動をしたところで、浅いものは見抜かれますよ。

編集部: 最後になりますが、先生は大学の学びを通して、どのような人間を育成しようとお考えですか?

 漢学の精神の根底は思いやりだと思います。だから、学生には思いやりを持った人間に育ってもらいたい。それと謙虚さですね。思いやりがあって、謙虚な人間。いまの世は、謙虚はダメだと言われます。そんな控えめなことでは、社会で生きていけないと。本当にそうでしょうか。私は、日本人が持っている美徳のようなものは、もっと大切にすべきだと思います。3.11の震災のときにも、日本人の思いやりあふれる行動は世界で評価されました。利ばかりを追う世の中だからこそ、日本人的な美徳が生きてくるのではないでしょうか。それと、親孝行ですね。目上の人を大切にする。まさに論語の精神ですね。昔の日本人が持っていた心です。
 いまは人を蹴落としてでも自分が上に、という時代ですが、それじゃいけない。日本人の美徳を、漢文を学ぶことを通して涵養してもらいたいと思っています。漢詩を作るのも、そこなんですよね。きれいなところを見つけて、きれいに詠う。見る目がなければ、見つけられませんからね。漢詩を作ることで、物を見る目が養われます。どこにでも美しいものはあります。美しいものを感じること。四季の移ろいや人の機微を感じること。そういう細やかな日本の心を持った人を育て、社会に送り出していきたい。漢学にこそ、日本人の美しい心のルーツがあると思います。

鷲野 正明(WASHINO Masaaki)教授プロフィール

●大東文化大学文学部卒業、筑波大学大学院中退
●専門/中国文学、日本漢文小説

掲載情報は、
2012年のものです。