21世紀アジア学部の洞察

編集部: 国士舘大学の21世紀アジア学部は、どんなことを学ぶところでしょうか?

 この学部の目的を一言で申しますと、「21世紀アジアで活躍できる人材の育成」ということになります。ご存じのように、いま、アジア諸国は急成長を遂げています。このアジアを舞台に活躍できるグローバルな感覚を持った人間の育成が急務となっています。21世紀アジア学部は、まさにこのような時代の要請に応えるために設立されました。
 アジアで活躍するためには、英語はもちろんですが、もう一つ、アジアの国の言語を習得する必要があります。でも、言語だけでは足りません。社会や政治経済、文化、歴史を含めて、総合的にアジアを理解した人間の養成が必須になっています。この学部では国境の枠を超え、さまざまな分野の知識を横断的に学ぶことができます。真のグローバルな感覚を身に付けた“国際人”として、学生たちを社会に送り出していきたいと考えています。
 ただし、グローバルというと世界にばかり目が向きがちですが、実は、足元の日本を知ることも大切なのです。なぜなら、外国に出ると私たちはまず何よりも「日本人」として見られるからです。ビジネスの場でも、相手と話しをしていて、まず尋ねられるのは日本のことです。「あなたの国はどういう国ですか?」。この問に答えられるかどうかで、信頼されるかどうかも決まってきます。ですので、21世紀アジア学部では、海外のことを知ると同時に、日本を知ることも大切にしています。たとえば、華道、茶道、書道、弓道、合気道など伝統諸芸が学べることもこの学部の大きな特徴でしょう。日本とは何か、日本人とは何か。世界を幅広く知るとともに、日本を学ぶことで、グローバルな感覚を身に付けた真の国際人を育成していきます。

編集部: 先生はどのような分野を研究なさっているのですか?

 私の専門は「日本文化史」です。その中でも主に生活文化の研究をやってきました。日本の歴史の中で、人々がどのように生活してきたのか。日本の文化はどのように成立して今日に至っているのか。そのようなことを調べています。
 もともとの専門は「村落史」という分野で、農村という食の生産現場の歴史を研究していました。ただ、途中から生産したもの、つまり「食」に興味が湧いてきて、食を調べているうちに、「村落史」と「食文化史」の問題が自分の中でうまく結びつき、そこに軸足を置いて「日本文化史」を研究するようになりました。
 「食」の分野で私が主に注目したのは、米と肉の問題です。日本人の主食は米だと言われていますね。米は高温多湿を好む作物ですから、日本を含むアジアモンスーン地帯で広く栽培されるようになりました。その中で、普通は米と魚がセットになって、それに豚を飼うというのが米文化の一般的なあり方なのです。ところが日本の場合は「肉」を落としてしまった。肉を食べないというタブーが国家的に展開されてきました。これは他のアジア諸国では見られないことです。なぜ日本人は肉を食べなくなったのか、本当に食べていなかったのか、といったことに興味が湧き、研究テーマに取り上げました。

編集部: 日本人はなぜ肉を食べなくなったのですか? 宗教的な理由でしょうか?

 よく言われるのは仏教の影響ということですが、アジア諸国で仏教が入ってきたのは日本だけではありません。それなのに、なぜ他の国では肉が食べられているのに日本では肉食が廃れたのでしょう。その原因の一つとして考えられるのは、日本が国を作るとき、「米」に執着したということです。税金としても米が用いられました。それは国家が米を社会の経済基盤に据えようとしたことを意味しています。
 そしてもう一つ、当時の支配層の中に「肉を食べると稲作が失敗する」というタブーのようなものがありました。天武天皇の世の675年に「肉食禁止令」が出ます。ただ、このとき禁じられたのは牛、馬、犬、猿、鶏の5種類だけでした。日本人がよく食べていた鹿と猪の肉は入っていません。しかも禁止している期間は4月から9月までの農耕期間だけです。この間に肉を食べると凶作になると信じられていたのです。厳密に言うと、肉食禁止令というより、殺生禁止令に近いものだったのですね。
 当初は肉食を禁ずるものではなかったのですが、しかし、一旦そういう法令が出てしまうと、動物を殺すのはよくないとされ、それで鹿や猪まで殺してはいけないとなってきたんだと思います。そして、肉食が「穢れ」という観念に結び付き、穢れがあるから稲作が失敗する、これを祓うために肉食を忌むということになったのでしょう。実際、鎌倉・室町あたりの時代になると、鹿肉を食べると100日間穢れるとされ、神社や宮中に入れなくなります。鹿肉を食べた人と一緒に食事をしただけでも穢れが移り、30日間ぐらい神社や宮中に立ち入れなくなる。だから、中世の人は神社にお参りに行くとき、日数を計算して前もって肉を食べないようにしていたのですね。こうした穢れの観念がしだいに民間に浸透し、日本人は肉を食べなくなっていったのです。

編集部: ふだんの授業ではどのようなことをお話しされているのでしょうか。

 一つは、「日本の文化史」ということで、旧石器時代から江戸時代ぐらいまでの日本の生活文化の流れを、いま言った肉食の問題などを含めながら、概観する講義をやっています。それぞれの時代に人々がどのように生活していたのかということを、社会のシステムや経済、政治体制などを背景にしながら話しています。
 もう一つは、私自身が沖縄と北海道に興味があるので、沖縄の文化と民俗というテーマで講義をしています。沖縄と北海道が正式に日本になったのは明治以降のことなんです。沖縄には琉球王国があり、北海道にはアイヌの人たちが住んでいました。そういう意味で沖縄と北海道には共通点が多いのですね。沖縄では豚や山羊が食されていましたし、アイヌの人にとっては熊や鹿が大切な食料でした。私は「相似形」と言っているんですが、北と南で違うように見えますが、歴史的に見れば両地域は似たような歩みを辿っています。中世まで、北は青森まで、南は鹿児島の喜界島までが日本であると思われていました。そこは米の文化であり、沖縄と北海道にだけ肉食が残っていました。そこから両地域を特別視するような見方なども生まれてくるわけです。こういったことを授業で教えています。

編集部: ゼミでは、学生たちはどのようなことを学んでいきますか?

 私が受け持っているのは3年生と4年生のゼミです。4年生で卒業論文を書くことが必須になっているので、それに向けた勉強をやっていきます。
 まず、3年生の段階では、テキストをきちんと読むことに力を入れています。ゼミ生と相談しながら、彼らの興味があるようなテキストを選び、それを読み込んでいきます。最初のうちは一緒に読みますが、慣れてきたら本の内容をまとめて発表してもらい、さらに議論するということもやっていきます。文献を正しく読み、読んだ内容を理解し、理解したことをきちんと相手に伝える、そういう基礎的な力を身に付ける訓練です。
 そして、3年の後半から徐々にテーマを絞り込み、4年の初めには卒論制作に取りかかれるようにしています。学生が取りあげる卒論のテーマは、それぞれですね。日本の文化的なシンボルとしての「菊」の研究とか、信長、秀吉、家康の天皇観の違いとか、日本の妖怪についてなんていう題材もありました。また、私の研究分野の食についても書いた学生がいます。韓国に留学していた学生で、日韓の醤油の違いについて調べて論文にしていました。それぞれが、なかなか興味深いテーマを取りあげてきますね。4年のゼミでは、毎週、自分で調べてきたことをまとめて、みんなの前で発表してもらっています。その授業を積み重ねているうちに、最終的に卒論が完成するような形で指導しています。

編集部: 3年生のときに国会図書館に行くそうですね。これはどのような狙いがあるのですか?

 国会図書館に行くのは3年生の6月ぐらいですか。ゼミに慣れ、少し本のことが分かってきたら、実際にどうやって本を探すかということを学びにいきます。卒論のテーマによっては新聞や雑誌から記事を拾うことも必要になってきますから。
 図書館では、まず利用者カードを作ってもらい、実際に自分が興味のあるテーマの本を出してもらって閲覧します。また、雑誌と図書の違いとか、辞典の引き方なども学びます。地名辞典を手に取って、自分の住んでいる住所を引き、どんなことが書いてあるかを調べてもらったりします。それと必ず連れて行くのが新聞資料室ですね。ここには全国の新聞が集まっています。縮刷版もありますし、古いものはマイクロフィルムで収められています。学生に自分の生まれた日の新聞を出してきて、その日がどんな日だったか見てもらうのですが、みんな興味深そうにして読んでいますよ。
 ひと通り国会図書館を見たら、午後は皇居を通って江戸城のことなどを説明し、神田神保町の古本屋街まで歩いていきます。古本屋さんは店によって専門が違うので、そんなことを説明しながら案内します。そして、すべて終わったら、神保町でコンパをやって解散します。ゼミは5人から10人ぐらいの少人数制なので、かなり密度高く学べますね。ゼミ生には海外からの留学生もいるので、お互いにいい刺激を与えあえる環境にあります。

編集部: 先生はなぜ日本文化史に興味を持つようになったのですか?

 そうですね。かっこよく言えば、日本のことが知りたい。その中で生きている自分を考える。自分とはどういう存在かを考えるうえで、日本を知ることが重要になってくる。そうなると歴史を学ぶ必要があるし、日本を知るためにはアジアを知らなければならない、世界も知らなければならない、となっていったんです。
 なので、私は割と海外に出歩く方ですね。いままで行った国は、50カ国じゃきかないんじゃないかな。東南アジアとヨーロッパはほとんど回りましたし、ラオスには調査で5~6回行きました。「食」に興味があるので、いろんなものを食べてきました。カエルとかコオロギとかトカゲなども。あとは虫もですね。竹筒に入れて生きたまま売っているんですよ。それをレストランに持って行って料理してもらうんです。格別おいしいってわけじゃないけど、まぁ食べられますよ。
 もう一つ、私が歴史好きになったのは、中学時代の先生の影響です。正直いって、その先生に出会うまでは歴史があまり好きではありませんでした。その方は、教え方も良かったのですが、とてもよく勉強されていました。10年ほど前に亡くなられたのですが、卒業後もずっとおつきあいをさせていただきました。
 授業の中でときどき学生に言いますが、歴史は暗記科目ではないんですね。極端な話、細かいことは覚えなくてもいい。その代わり、歴史の流れをきちんと理解してほしいと言っているんです。固有名詞を覚えるより、社会全体の流れ、仕組みを理解することが大切なんだと。その昔、どういう仕組みがあって、どういう政治が行われていたか、その下で人々がどう暮らしていたかを理解することが大切なんです。そういう視点で私は授業を行っています。

編集部: 最後になりますが、日本文化史の学びを通して、
どのような人材を育成したいとお考えですか?

 21世紀アジア学部に限ったことではありませんが、学生たちは大学での学びを終えると、社会人として外の世界へ飛び立っていきます。そのために必要となる基礎的な力を身に付けさせてあげたいと私は思っています。具体的にいうと、資料の見つけ方、調べ方、それに基づいた企画力や発想力、そういったものを卒論のトレーニングを通して学んでほしいと思っています。
 社会に出たとき、アルバイトならただモノを売っていればいいけれど、社員になったらそうはいきません。自分で企画を立てて提案する力が求められます。そのためには社会や経済の動きを知る必要があり、また、自分が企画する商品の売れ筋、価格、流行なども知らなければなりません。
 正直言うと、大学で学んだ知識は、社会に出てそのまま直接役立つことは少ないんですね。それよりもむしろ、物事に関心を抱き、問題意識を持ち、それに従って資料を集め、読み込んで理解することが大切です。自分なりの論理を組み立て、相手に伝え、説得する。こういう基礎的な物事の調べ方、考え方、表現の仕方を、大学4年間の学びを通して身に付けてほしいのです。この力さえ身に付けば、どんな会社に入っても、どんな仕事に就いても、立派にやっていけると思います。

原田 信男(HARADA Nobuo)教授プロフィール

●博士(史学)/明治大学 人文学研究科 史学専攻研究科 博士課程修了
●専門/日本文化史、日本文化論