トルコに源を発するティグリス河は、トルコとイラクの国境を越えて、北イラクの都市モースルを貫通し南イラクへと向かって流れる。モースルの北東数十キロメートルの地点のティグリス河をせき止めて貯水湖をつくるため、1981年から1985年にかけてダムが建設された。このダム建設による、幅約11kmで全長約60kmに及ぶ水没地域には、様々な時期の遺構を内包する大小の遺丘(テル)が遺跡として散在しており、それらがダム湖の湖底に沈む前に、できる限り発掘調査を行おうとするプロジェクトが、外国調査隊の協力のもと推進された。イラクの調査隊はもちろんのこと、イギリス、フランス、ドイツ、イタリア、オーストリア、ロシア、ポーランドなどの各調査隊がこのプロジェクトに参加して発掘調査を行った。日本からは、国士舘大学イラク古代文化研究所を母体とする調査隊(隊長:藤井秀夫)が参加して、テル・ジガーン、テル・フィスナ、テル・ムシャリファ、テル・デル・ハル、テル・ジェサリー、テル・スウェイジ、カッスル・バナートと呼ばれる7遺跡を発掘調査した。
日本隊の最後の調査地テル・スウェイジでは、調査期間中に、その遺跡近くの町が水没、湖水はその遺丘の裾まで迫ってきていた。イギリス隊のとある遺跡のように、発掘作業中に発掘トレンチが浸水、調査途中で発掘の終了を余儀なくされた場所もある。現在、この地域は貯水湖として、衛生写真ではもちろんのこと、地図上にもみることができる。
北メソポタミアの一部であるこの水没地域においては、こうして約63遺跡で発掘調査が行われ、この地域における、無土器新石器時代からイスラム時代までの居住層の存在が明らかとなった。そして、ポーランド隊が発掘したテル・リファン周辺では旧石器の散布も認められている。
無土器新石器時代(前8500頃~前7000年頃)の層は、デル・ハルやロシア隊が調査したネムリクで、ハッスーナ期(前6000年頃)の層はジガーンを含む5遺跡で、またハラフ期(前5500頃~前5000年頃)の層は9遺跡でそれぞれ確認された。また、8遺跡からは南メソポタミア起源のウバイド土器(北メソポタミアでは前5000年~前4000年の間に年代付けられる土器)も出土している。前4千年紀では、ムシャリファなどの4遺跡で南メソポタミアのウルク文化が波及する以前(俗にいうガウラ期、前4200/4000年~前3800/3750年)の居住層が、またイギリス隊が発掘した遺跡テル・モハメド・アラブでは南のウルク文化が波及した時期の最後、すなわちウルク後期終末(前3000年頃)にあたる文化層が確認されている。前3千年紀前半についていえば、19遺跡でニネヴェ5期(前3000年~前2500年)の居住あるいは文化層が確認され、他方、北メソポタミアに南のアッカド王朝の支配が及んだ時期と、その支配から解き放たれフルリ人王国が出現し隆盛を誇った時期によって代表される時代である、前3千年紀後半においては、9遺跡にその時代の層があった。前2千年紀では、ハブール土器(前1900年~前1400/1300年に流行した彩文土器)を出土する遺跡が22、暗色系の彩色帯の上に白色の顔料で文様を重ね描くのが特徴のヌジ土器(前1550年~前1280年に流行した土器)を出土する遺跡が12あった。これらの土器を出土する時期は、シャムシ・アダド1世(前1813~1781年)が北メソポタミアに領域国家を建設、次いでその国の崩壊とともに多数の都市国家が乱立するなかでミタンニ王国が出現して広範な地域を支配した時代である。次の、アッシリアが強国として頭角を現した時代、すなわち中期アッシリア時代(前1350年~前1000年)では、その時代の層をもつ遺跡は22を数える。さらに前1千年紀では、新アッシリア時代(前911年~前612年)の居住層が12遺跡で確認され、後のヘレニズム時代の層があった遺跡は数が多い。ヘレニズム時代については、フィスナでの、この時代の楔形文字粘土板の出土が特筆に値するだろう。さらに、ササン朝ペルシャ時代(西暦226年~642年)の居住層は10遺跡で確認され、その後のイスラム時代の住居址は多数の遺跡で発見されている。