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概要

国士舘史研究年報第8号

教育の「土台」としての宗教・文化21僧侶であり仏教社会事業家である渡辺との関係を指摘するものは少ない。ここでは、まず渡辺と、頭山満や徳富蘇峰らとの関係を挙げておく。渡辺の甥である作家の武田泰淳は、渡辺が晩年に頭山や徳富らとのグループと付き合ったのは失敗であったと述べている) (1 (。渡辺が彼らといつ交際をはじめ、どのような影響を受けたのかを明確にすることは、今後の渡辺海旭研究の課題だと思われる。なぜならば、太平洋戦争中の植民地政策と、植民地での仏教者の社会事業とがある種の密接な関係にあることがしばしば指摘され始めているからである。しかし、ここでは本論文の論旨から外れるため述べない。渡辺と頭山、徳富らとの接点は二つある。ひとつは、すでに述べたように、一九二六(大正一五)年に「国士舘完成長老懇談会記念写真」として、頭山や徳富と一緒に写る渡辺の写真がある(『壺月全集』下巻には、この写真は、私塾國士館の設立を協議する有志として、一九一六(大正五)年のものとして収載されているが、甥の泰淳が四四歳の渡辺を晩年というのはいささか若すぎる気がするので、年号の誤りであろう)。ふたつめは、新宿中村屋の相馬夫妻) (1 (とボース、それと頭山との関係からの接点である。新宿中村屋の相馬夫妻は、長女俊子の死をきっかけにして、渡辺の信奉者となったことは有名な話である。特に、妻の黒光は、壺月会という渡辺の法話会を主催するほどであった。ボースとは、中村屋のボースとして日本に初めてインドカレーを伝えたインド独立運動の指導者のラス・ビハリ・ボースのことである。ボースは、一九一五(大正四)年にイギリスの追及を逃れて訪日し、頭山満の支援を受け、新宿中村屋の相馬夫妻の自宅に匿われることになった。その後、相馬夫妻の長女敏子と結婚したが、敏子は一九二五(大正一四)年に亡くなっている。相馬愛蔵は、渡辺の哀悼文のなかで、「私の婿のボースの處へ、三周忌の墓参りに行きました。頭山翁と先生とは初対面でした」と書いている。したがって、愛蔵のいう三周忌とは、一九二七(昭和二)年のことであろう。この時点で渡辺は、五五歳を迎えている。渡辺は、太平洋戦争を迎える前の一九三三(昭和八)年一月五日に六一歳で敗血症により逝去している。そうすると、愛蔵の記憶違いという可能性もあるが、柴田と渡辺との出会いはそれよりも遥かに早いことになる。次に、柴田と渡辺との接点をみていく。柴田が上京し、渡辺が死去するまでの、彼らの接点を年表にすると左の通りになる。