ブックタイトル国士舘史研究年報第8号

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概要

国士舘史研究年報第8号

大場信續187るのも、全く氏の信念の一つの発露であつて、一身の名声利得を考慮に置くものでないことは、私の熟知する所である。こうした賛辞は他からも寄せられており、信續もまた自分の信念について、同誌「十周年を顧みて」にて次のように示している。恰も祖先がこの土を培ひ育み来つたやうに、私も微力の限りを郷土の為に捧ぐる事は、祖先に対し郷土に対して当然の報恩、天与の義務と思つてゐる。然しそれが私の器であるか否かは知らず、少くとも私一箇はしかく信じてゐるのである。私が今現に幾多の公共事業に微力を捧げて、日々多忙の日を送つてをるのも、結局この信念に基く行動に外ならないのである。但し私は凡そ議員と称すべき公職の何物にも席を列してゐないといふのは、さういふ方面には自然人才が多いからであつて、又自らその器でないことをも知つてゐるからである。要するに私は飽くまで側面的な、質素な方向に向つて、郷土を培ひ、郷土の為に尽して行かうといふのが、私の主義でもあり方針でもある。私は名誉や利益に対して寸豪の欲望もない、唯この郷土愛の信念に始終するのが私の生命である。私が学校長として語り得るものは唯この一事であると思つてゐる。本校は示上の如き私の主義方針の下にあるのであるから、その経営乃至教育方針も飽くまで質実堅剛に郷土の発展向上を主眼として、主として地方の子弟、それも多くは農商家の子弟をして、家業の傍簡便に自由に修学し得しむることの以外には、一歩も踏出してをらぬ。故に甚だ質素な、甚だ平凡な、一面から言へばあまりに見映えのせぬ学校ではあるが、これが私の主義であり方針であり、又この学校の存在する所以でもあるのである。一九四一(昭和一六)年一〇月、信續は校長の任を柴田德次郎に譲っている。ただし、その後も地域、そして青少年への援助は生涯を通して続けていった。一方、信續が組合長を務める世田谷信用販売購買組合は、一九五一(昭和二六)年六月に公布・施行された信用金庫法に伴い、翌一九五二(昭和二七)年七月に世田谷信用金庫となった。信續は生涯にわたり組合長を務めたが、最後まで「金を出しても口は出さない」態度を貫いた。