ブックタイトル国士舘史研究年報第8号

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概要

国士舘史研究年報第8号

大場信續185とが、寧ろ正反対であるのに驚き且つ喜んだやうなわけであります。いかにも国士館の学生は破れ袴や破れ洋服で、決してきれいではありません。(中略)国士館の学生のきれいでないのは、一に質実といふ主義から発足したものであるやうであります。現にこれは学生ばかりでなく、職員や役員達に至るまで同一であります。(中略)私は附近の人々の風説や、自分一己の想像から、国士館といへば、壮士―豪傑―酒と、こんな風に聯想して、定めて酒呑童子のやうな人が多いだらうと思ふて居ましたのに、事実が全く反対なのに驚きもし、又感心もしたのであります。(中略)こんな風に眼や耳で、機会ある毎に国士館なるものが漸次理解さるゝやうになりましたと共に、柴田館長やその他の諸君と接近する機会の度重なるに従ひ、国士館の精神方面に就ても、次第に理解がつきまして、理解すればするほど世間の想像と相反して、その精神たるや、至つて健実のものであり、又今日の時勢では、当にさうなくてはならぬものと痛感するやうになつたのであります。また、信續の校長就任は国士舘側も歓迎している。国士舘舘長柴田德次郎は、国士舘支援者である麻生太吉へ商業学校創設の経緯を伝えた書簡(『国士舘百年史』史料編上、四五六~四五七頁)のなかで「校長には宮内省農務課長農学士大場信續氏とて四十数代当世田谷の名家にて徳川時代の代官、現在も荏原郡一の大地主(五十三才)一寸野田翁(筆者註―卯太郎)の如き人物に御座候」と記している。一九二六年四月、授業を開始した商業学校であったが、準備期間が短かったこともあり、当初の生徒数は定員に満たず、また、生徒は職業に従事しながら学ぶために、休暇期間にも課題が生じた。そこで一九二六年六月一日に、前期・後期に入学可能な二期制の導入と長期休暇の短期化、選科生の設置などを骨子とした学則変更を申請した。その後は時代の要請もあり、一九二七(昭和二)年二月一五日には、高等程度の学校などへの進学者が増加したことによる学科課程の改善や受験料の減額を主な要旨とした学則改正を申請している。さらに、一九二八(昭和三)年一二月には、青年訓練所規定第八条に基づく教練時間などの学科課程変更のため学則改正願を提出し、翌一九二九(昭和四)年一月一六日に認可を得た。これにより商業学校の卒業生は、徴兵猶予と在営年限短縮の