ブックタイトル国士舘史研究年報第8号

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概要

国士舘史研究年報第8号

大場信續183て、従来の農耕地は住宅となり商家も増え、急速に市街地化が進んだ。そうした状況の中、地域では商業教育の必要性が高まりつつあった。こうしたなか信續は、一九二四年、官界を去る決断をした。すなわち、これからは一介の民間人として地域の発展のために全てを捧げる覚悟を示すものであった。それまでも地域の発展に尽くすべく、官職では世田谷地域の区画整理に尽力し、その傍ら電車線路延長運動、そして地域経済発展の基盤となった世田谷信用販売購買組合の創設も実現させた。このように信續の関心は地域の問題全般にわたっていたが、純民間人となって最初に手掛けたものは教育事業であった。元来信續は、向学心の厚い青年に対して、進んで手を差し伸べ、引き上げてやる援助を惜しまなかった。書生として大場家に住み込ませ、学校に通わせるなど、信續の庇護、引き立てを蒙った青年は枚挙に暇がない。こうしたなか国士舘では、一九二五(大正一四)年三月三一日、中学校令に基づく認可申請を行い、同年四月八日に設置認可を受け、国士舘中学校を創設した。また、新築の中学校校舎などの施設を公共的に活用したいと考え、世田谷地域の青少年のための無償活用を提言する。これを受けた世田谷町長山崎四六の斡旋により、一九二五年四月に農商補習夜間塾が開校された。ここで塾長に推されたのが信續であった。入学者数は二〇余名で、普通学と農業大意が講義された。前者を国士舘の教員が分担し、後者は信續が担当した。開講から約一年後、荏原郡長宮城栄三郎、目黒町長土生文之助などを中心に「組織ある中等程度の商業学校」の設立が希望され、世田谷町・駒沢町・松沢村・玉川村・目黒町・碑衾町の「荏原郡西部六か町村」と国士舘の協議により商業学校の創設が図られた。やがて、学校の経営主体・財政負担は六か町村とし、校長を大場信續とすること、独立経営が不可能になった場合は国士舘が経営の任にあたること、学校名を国士舘商業学校とすること、国士舘の校舎・施設を利用することなどが決定した。これを受けて、一九二六年二月五日に「実業学校令」に基づく認可申請を行い、同年三月四日に設置認可を受け、国士舘商業学校が創設された。以上の経緯を以て信續は国士舘商業学校の校長に就任することになったのだが、当初から国士舘を理解し、進んで校長の任に就いたわけではなかった。実のところ、初めはかなりいぶかしんでいたことが、信續が『国士舘々報』二巻三号(一九二六年四月一日)に寄稿した「私が国士舘を理解する迄」と題する一文(『国士舘百年