ブックタイトル国士舘史研究年報第8号

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概要

国士舘史研究年報第8号

国士舘史研究年報2016 楓?182業、農業実務教育が中心だったが、その他の学科も教えて、実業学校卒業に準ずる学力をつけさせようと努めた。この夜学は、一九一一(明治四四)年に、世田谷村立桜農商補習学校が正式に発足するまで続いた。こうした信續の青年たちへの温かな眼差しが、後の国士舘商業学校設立へと繋がっていったのである。一九〇八(明治四一)年一〇月、信續は大学の教授や先輩の推薦によって農商務省に入り、農商務技師に任じられた。当時は農業の合理化と増産のための耕地整理が国の急務であった。したがって、信續の仕事は、政府の命令に従い、都道府県庁へ出張して講習会を開き、または現場に臨んで実地指導をし、耕地整理の専門家を増やすことにあった。その後、一九一三(大正二)年四月には宮内省林野局に栄転する。またその一方、当局の了解を得て、地元に荏原郡第一土地区画整理組合を創設、組合長に就任し、一九二四(大正一三)年一〇月、組合設立の認可を受けた。早速全国に先駆け、現在の世田谷一、二、三、四丁目及び弦巻二、三丁目、若林、赤堤、上馬の一部にわたる地域の大規模な区画整理に着手した。この組合は多方面から注目をされたが、とくに全国に先駆けてメートル法を採用したことで脚光を浴びた。この整理事業の計画は、一九二一(大正一〇)年四月のメートル法採用後早々のもので、一間をメートルに直した単位ではない純メートル単位など、今日でも十分に普及されているとはいえないものである。一方で信續は、一九二〇(大正九)年一二月に、相原永吉世田谷村長をはじめ、有志と図り、世田谷村の地主一六〇人の連署を添付した勝光院西線敷設に関する「電車線路延長願」を玉川電気鉄道株式会社に提出するなど率先して事に当たった。勝光院西線とは、現在の下高井戸から三軒茶屋までの東急世田谷線のことである。また、一九二一年二月、一部には相談もしていた産業組合法による有限責任世田谷信用販売購買組合の設立案を発表した。信續は宮内省林野局に奉職していたが、公共事業のことであったので快諾された。また、地元有志からも是非にとの声が高かった。古くからの慣習で、信續の代になっても大場家へ金を借りに来る地元民が絶えず、その上永い間続いた惰性で、期日が来ても双方何もせず放置しているので、借金は増えるばかりという状態であった。そこで今後は一切組合を通しての貸借にしてその悪習を断ちたい、というのが見かねた有志たちの希望であったという。また、時代の趨勢に眼を転ずると、大正末期の世田谷地域は、関東大震災以降、郊外への私鉄開通も相まっ