ブックタイトル国士舘史研究年報第8号

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概要

国士舘史研究年報第8号

大場信續181学中の一八九九(明治三二)年、不幸が襲う。父信愛が亡くなったのである。信續は物心のつく頃から、父から上に立つ者としての薫陶を受けた。また、母や祖母からも歴代代官が伝えた家訓によって厳しく躾けられていた。したがって、ゆくゆくは第一四代を継ぐ心構えは出来ていたものの、直ちに父の跡を継ぎ、当主としての義務と責任を負って立たねばならなかった。信續が戸主になった当時、大場家の主な収入源は、小作料を中心とする農業収入であったが、大きな所帯にはそれなりに出費も多い。そのうえ借金も背負っていた。しかしそのために先祖伝来の土地はたとえ僅かでも手放すことはしなかった。当時はまだ山林がかなりあったので、松や杉などを切り出して売り、借金返済に充て、急場を凌いでいった。一九〇〇(明治三三)年四月、信續は第一高等学校から東京帝国大学農科大学(現東京大学農学部)農学科に進んだ。法科や工科ではなく、あえて農学科を選んだのは、父信愛の意志を継いで世田谷農家の指導者となり、村人と共に生きる覚悟からであろうか。在学中の一九〇三(明治三六)年二月には結婚もしている。生涯の伴侶となったのは、神奈川県高津村上作延(現川崎市高津区上作延)の地主、三田正綱の長女琴子である。信續二四歳、琴子一八歳であった。生涯を通して仲睦まじい夫婦であったという。また、同年七月にはめでたく東京帝国大学農科大学農学科を卒業するも、同年の日露開戦によって、一年志願兵に召集。近衛野砲兵聯隊留守隊にあって日露戦役勤務に服したが、戦争の終息に伴って召集解除となった。除隊後は想うところあってか、再び学徒となった。学校は同じ東京帝国大学農科大学だったが、今度はそこに新しく設けられた耕地整理講習、後の農学部農業土木科の第一回生になったのである。在学期間はわずか一か年であったが、この再就学がきっかけとなり、以後、耕地整理ないし区画整理の先駆けとして活躍していくこととなる。このように率先意欲に燃え、次から次へと新しい学問と知識を身につけていくと、同時に村の青年たちのことも思いやられた。彼らのほとんどは貧しいがゆえ上級学校へ行けずにいるわけだが、何とかして彼らにも勉強の場を与えてやりたいと考えていたという。その手始めとして行ったのが、一九〇六(明治三九)年の夜間補習学校の開校であった。これは世田谷村の知識人として知られていた実相院の和尚佐々木義宣の協力も得て、とりあえず桜小学校の教室を借りて、週三日行った。元より産