ブックタイトル国士舘史研究年報第8号

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概要

国士舘史研究年報第8号

国士舘史研究年報2016 楓?180い立ちを、『大場家歴代史 続』(大場家歴代史編集委員会、一九八四年)に拠ってみていくこととする。信續は、一八七九(明治一二)年一月四日、東京府荏原郡世田谷村二三六番地(現東京都世田谷区世田谷一丁目二九番一八号)に、父信愛、母以佐の長男として生まれた。大場家は、江戸時代、近江彦根藩世田谷領の代官を務めた家柄であり、数えて一四代であった。ここで大場家の由緒についてみておきたい。世田谷の地は、江戸時代初期の一六三三(寛永一〇)年に、近江彦根藩の飛び地領(二三〇〇石)とされた。その理由は、当時の藩主井伊直孝が幕府の要職を務めており、そうした者へは便宜上江戸近くにも所領が与えられる慣例からであった。その後、江戸時代を通して世田谷は井伊家が領していた。ちなみに、世田谷の豪徳寺は、一六三三年に直孝が井伊家の菩提寺として伽藍を創建し整備した。寺号は直孝の戒名である「久昌院殿豪徳天英居士」による。こうして世田谷を治めることとなったものの、藩主自らが治めることは困難であったため、代役として代官がたてられた。その代官に任じられたのが大場家であった。大場家は江戸時代以前より在地しており、戦国期には小田原北条氏傘下の吉良氏に仕えていた。ところが、北条氏が豊臣秀吉に滅ぼされ、吉良氏も滅亡すると、野に下って帰農していた。しかし、世田谷の地が彦根藩領となった際、井伊家より召しだされ、武士身分に戻され、以後、明治維新に至るまで世田谷の地を治めることとなった。江戸時代の郡代および代官は広域支配をあずかることもあったが、世田谷領は極めて小規模であったこともあり、農民との接点が近く、代官所の掃除人足・風呂番・障子張替などの雑用は、役人ではなく領内の農民があたった。こうしたことから農民の実情も察しやすく、また、歴代の当主たちも自らを律し、農民からも尊敬の念を得られるよう努めていたことが、『大場家家督心得』はじめ歴代代官が伝えた家訓などから読み取れる。一八八三(明治一六)年、四歳となった信續は、世田谷村経堂在家村連合村立桜小学校に入学した。これは村の子供より二年早く、当時散見される例とはいえ、信續にそれだけの能力があってのことだろう。第二学年からは赤坂小学校に移り、赤坂小学校高等科を卒業後、東京府立尋常中学校(現日比谷高等学校)、第一高等学校(現東京大学教養学部)へと進学した。五歳で小学校へ上がってからの信續は、今も昔も困難なこのコースを順調に進んでいった。このように順風満帆であった信續に、第一高等学校在