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概要

国士舘史研究年報第8号

教育の「土台」としての宗教・文化151.誕生と家庭環境 渡辺海旭は、一八七二(明治五)年一月一五日、東京市浅草区田原町三丁目一一番地に父・啓蔵、母・と奈の長男として誕生した。幼名は芳蔵である。父の啓蔵は東京小伝馬町の「まごめ」の番頭をしていたらしいが、生活は相当に困窮していたことが伝えられている。経済的な理由のためか、一八八一(明治一四)年、渡辺が九歳のときに抜嫡のための改名届を提出、翌年一月一九日に許可されている。このとき浅草にある「満照寺」に入寺したといわれているが、この満照寺にいた期間は短く、一八八四(明治一七)年には寺をでて、博文館の小店員となっている。しかし満照寺の住職と東京・小石川の源覚寺の端山海定(西光寺前住職)とが懇意だったことから、一四歳で端山海定について得度を受けている。出家した動機やそのきっかけについては明らかではないが、当時渡辺家は経済的に困窮しており、なにか経済的理由によるものであったと考えられている。渡辺海旭論文集『壺月全集』下巻の「伝記」には、「偶々、頓悟の質を當時小石川浄土宗源覚寺に在りし西光寺前住職端山海定和尚に見出され、一四歳にして和尚の室に入り薙髪得度す」とある。2.青年期の学び幼少の頃から聡明であった渡辺は、一八八七(明治二〇)年、一五歳で浄土宗第一教校(現芝中学高等学校)に入学する。その後、浄土宗学本校に進み、高等予科と高等本科の全科を修め、一八九五(明治二八)年、学年第二位の優秀な成績で卒業している。学友には、望月信亨(一八六九―一九四八)や荻原雲来がいる。高等予科では宗余乗学、哲学、国語、漢文、英語、羅甸、数学、地理、歴史、博物、理財学などを学び、高等本科では倶舎、唯識、華厳、天台の専門分野があり、渡辺は、倶舎部を卒業している。この在学中に、西欧の仏教研究にも注目し、ドイツの研究者の文献をもとに『西蔵仏教一班』(一八九五年)を研究し発表している。卒業後すぐに、関東各県下浄土宗寺院連合第一教校教諭を任命される。また、『浄土教報』の主筆に就任している。その他、浄土宗内地留学生に任命され、三年間比較宗教学を学んでいる。一八九八(明治三一)年には、師僧の海定が隠退したため、その後を継いで西光寺の住職となる。また、革新的な仏教改革を目指した「仏教清徒同志会」(後の新仏教徒同志会)の設立に参加するなど、活発な活動をみせている。