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概要

国士舘史研究年報第7号

「小野寅生日記」にみる戦中・戦後と国士舘19一四七号)によって漸く定まる。さすれば、それまでは暫定期間であるゆえ、免許状も全て「仮免許状」ということになる。新しい免許制度の発足にともなう困難な問題は、旧令によって免許状を有する者、或いは従前の規定による学校卒業者の資格をどのように新制度に移行させるかということであった。そして、旧令による免許状を有する者の切替えについては、「教育職員免許法施行法」(法律第一四八号)第一条でこれを定め、切替えの期限、細目については、「施行法施行規則」で規定した。また、従前の規定による学校の卒業者等に対しては、「教育職員免許法」の規定による教育職員検定によって、それぞれ担当の新免許状を授与することとした。なお、「教育職員免許法施行法」第七条によれば、新免許状を授与された者について、それぞれ在職年数と相当の講習修了を条件として、上級の免許状を授与するとしている(5)。こうした経緯を鑑みると、この時期行われていた教員認定講習は、後の免許状申請に活かされたと考えられる。他方、「日記」からは、教員組合草創期の様子もうかがうことができる。戦後、民主化の中で組織された団体の一つに教員組合がある。教員組合は、二.一ゼネスト闘争後の一九四七年六月八日、全日本教員組合協議会(全教協)と教員組合全国連盟(教全連)などの教育労働運動の戦線統一をはかって、都道府県単位の教職員組合の全国連合体として、約五〇万人を結集して組織された(6)。「日記」昭和二二年六月二四日には、「今日教員組合準備委員会に出席したが、連中喋るには喋るが、実力、実行は口程もなさそうに感じた」とあり、あまり良い印象ではなかったようである。それでも同月一八日の荒川区立中学校による総会(於荒川区役所)や翌七月五日の教員組合結成大会などには出席している。当時は、民主主義による権利獲得が声高に叫ばれていた時であったが、国のため死を覚悟していた者たち(小野もその一人)からすれば、却って聞けば聞くほど冷めていったようである。七月五日の「日記」には、一、開会に当り、婦人の演説者に対する感想。 喋る前に先づ脚下を固め、実行が第一である。「私達がやらずして唯れがやる」等、各人の自負(自惚)が団体の推進力になるのであらうが、併し、大局からこれを見ると可笑くて仕方がない。亦、「命を投げ出してやらうではありませんか」と言ふ語を簡単に喋べるが、そう簡単に命が投げ