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概要

国士舘史研究年報第7号

国士舘史研究年報2015 楓?16は、戦中での思いを振り返り、「戦争が起り上級学校に進む事を断念した為勉強をせず如何に死ぬべきか対策を練つてゐた、戦ひの終りたる今日、学部に進むの力なきを如何せんや、死ぬ時が判つてゐても従しょう容ようとして本を読んでゐた古武士を見習はなければならない、今迄が違つてゐた」と記している。ところで、学校の状況はというと、前年三月に政府が「決戦教育措置要綱」を決定して、四月一日以降の授業は停止されていた(1)。そうした事情もあったことから、終戦後、学校からは、学生・生徒に対し、戻れる者は帰郷し、その後の連絡を待つようにとの指示がなされた。しかしながら、文部省としてもできるだけ速やかな授業の再開は急務としたことから、終戦間もない八月二八日には、次官通達「時局ノ変転ニ伴フ学校教育ニ関スル件」(専一一八号)により「学生生徒ヲ帰省セシメタル学校ニ在リテモ遅クモ九月中旬ヨリ右ニ依リ授業ヲ開始スルコト」と令している(2)。国士舘においては、授業開始に先立って、学生によるストライキをともなう要求申し入れがあり、その結果、通学の許可、寮は学生による自治制、服装の自由化、土日は作業日とせず、といった要求が受け入れられ、一九四五年一〇月一八日より授業が再開されたという(3)。残念ながら「日記」には再開後の授業の様子などは記されてはいないが、勉学への前向きな姿勢は徐々に取り戻していったようである。授業再開後間もない一〇月二三日の「日記」には、「学校へ教へて貰ひに行くのではない、自分でやるのである、教師は利用すべきであつて鵜呑すべきではない。自分で工夫してやらねば話しにならぬ」とあり、翌一九四六年六月一七日には、「戦死した先輩同輩に対しても怠けてはゐられない、優秀な彼等は愚鈍な小生を残して行かれた、生き残つた我々の双肩に日本の運命が託されてゐるのだ、諸魂の冥福を祈る、我努力奮闘せん」とその決意が示されている。その後、一九四七年三月二一日、至徳専門学校を卒業した小野は、就職に向けて動いている。しかしながら、就職難の時期でもあり、容易なものではなかった。当初、大船の水産学校や千葉の農学校にあたっているが、結果は記されていない。そこで、様々な気持ちの整理をするためか、一九四七年四月一三日から同年五月一四日まで、一か月に亘る旅に出ている。行く先々で友人や親戚を頼りながらの旅である。その経路は次の通りである。東京―神戸(友人)―岡山(伯母、鴨方の後輩、笠岡