ブックタイトル国士舘史研究年報第7号

ページ
153/182

このページは 国士舘史研究年報第7号 の電子ブックに掲載されている153ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。

ActiBookアプリアイコンActiBookアプリをダウンロード(無償)

  • Available on the Appstore
  • Available on the Google play
  • Available on the Windows Store

概要

国士舘史研究年報第7号

会田彦一151義を養成するものとして警戒した。その結果、文部省は同年一一月に「武道の取り扱いに関する件」(発体八〇号)を通知、学校武道の正課での取り扱いだけでなく、課外活動まで禁止した。これにより、学校柔道は剣道と弓道同様に禁止された。国士舘では戦後、文部省の要請を受けて、一九四五年一二月に財団法人国士舘寄附行為を変更、法人名を「至徳学園」へと改称した。これに伴い、国士舘専門学校も至徳専門学校に改称した。武道の教員養成を目的とした専門学校では、学校武道の禁止を受けて同年三月に剣道科・柔道科・弓道科を廃止、国語科・地理科・歴史科を新設した。柔道が禁止された専門学校で、会田は体育の教員として指導を行った。一九四六(昭和二一)年一月一一日の至徳専門学校学則変更申請書類での学科課程表には体育科目として「体操」と記されており、会田の履歴書(短期大学設置認可申請時)にも本務が「至徳専門学校教授体育」と記されていることからも確認できる。一九五〇(昭和二五)年九月のGHQによる覚書「学校柔道の復活について」によって、漸く学校柔道が復活することとなった(前掲『柔道 その歴史と技法』)。会田の履歴を1956(昭和31)年頃 会田彦一と短期大学体育科学生(中列中央が会田彦一)(『国士舘大学柔道80 年史―国士舘を創った人達と柔道部の歴史』掲載)