ブックタイトル国士舘史研究年報第7号

ページ
152/182

このページは 国士舘史研究年報第7号 の電子ブックに掲載されている152ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。

ActiBookアプリアイコンActiBookアプリをダウンロード(無償)

  • Available on the Appstore
  • Available on the Google play
  • Available on the Windows Store

概要

国士舘史研究年報第7号

国士舘史研究年報2015 楓?150には法政大学で柔道講師を兼任していた。また、柔道指導の傍ら、自身は一九三六(昭和一一)年二月には講道館柔道七段に列され、同年一一月には文部省中等全国中等学校教員武道講習会講師、一九四一(昭和一六)年一一月には文部省中等学校教員長期武道講習会講師、一九四三(昭和一八)年六月には講道館審議会委員を務め、一九四四(昭和一九)年二月には講道館柔道八段を授与されている。話が多少それるが、ここで戦中・戦後の柔道教育について言及しておく。一九三八(昭和一三)年に国家総動員法が施行されると、徴兵検査の合格率が年々低下していたこともあり、積極的に青少年の体位を向上させ国防能力の低下をくい止める目的で、一九三九(昭和一四)年に厚生省により「体力章検定」が開始される。これはいわば体力テストで、一五~二五歳の男子を対象として各学校で代行して実施された。この制度は一九四〇(昭和一五)年四月の国民体力法によって成文化される。一九四一(昭和一六)年には国民学校令により従来の「体操科」は「体錬科」に名称を変え、この教材として「教練」「体操」「武道」(剣道、柔道、銃剣道)が課せられ、柔道と剣道は偏ることなく併せて行い、武道は常に攻撃を主眼として鍛錬することが求められた(藤堂良明『柔道 その歴史と技法』日本武道館、二〇一四年三月二〇日)。特に柔道の鍛錬内容は、基本として礼法や当身技が教えられ、応用として極技と投技があった。投技よりも当身技が重視されたあたり、戦時下において柔道が実戦を目的とした教材に変えられたことの証としてみることができる。このことからも、中等教員養成を主眼としていた国士舘においても、武道の指導が戦技としてより一層重視されるようになったことは想像に難くない。一九四三年三月には体育局長通牒で「戦時学徒体育訓練実施要綱」が出された。これは文部省が学徒体育訓練の重点種目を指定して積極的指導に乗り出したもので、特に男子にあっては卒業後直ちに軍人として戦場に赴くのに必要な資質の育成に努めるものだった。この訓練種目は戦技訓練・基礎訓練・特技訓練の三種に大別され、銃剣道は戦技訓練、剣道・柔道は基礎訓練に指定され、武道が本来の意味である精神修養よりも戦力増強に利用されていくこととなる。一九四五(昭和二〇)年八月に終戦を迎えると、GHQ(連合国軍総司令部)が先頭に立ち、その一部局であるCIE(民間情報局教育部)は、日本の民主化政策の一環として武道を軍事的な技術とみなし、国民に軍国主