ブックタイトル国士舘史研究年報第7号

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概要

国士舘史研究年報第7号

会田彦一149柔術クラブ連盟とシュパンダウの警察学校の正式な招聘により、一九二六(大正一五)年の夏、パリを後にして待望のベルリンに移転。当時はベルリン市民も熱烈な歓迎ぶりで、ドイツの新聞では会田のベルリン入りを報じ、柔道の公演会場にあてられた大公会堂は満場立錐の余地もないほどの盛況であったという。ドイツの報道では大々的に日本柔道の真価を賞賛し、これを機にドイツ柔術は講道館柔道に傾倒してくるようになった(前掲「序にかへて」『図解柔道』)。ドイツでも約二年間柔道教育に努めた会田は、一九二八(昭和三)年一二月、日本に帰国した。渡欧してから約八年間の歳月を経ていた。帰国後の一九二九(昭和四)年一月には講道館柔道六段に列されている。国士舘と会田の出会いはここからである。先述したように、一九二九年四月に、中等教員の養成を目的とする国士舘専門学校が開設されると、講道館の錚々たる柔道家が講師陣に迎えられ、嘉納治五郎の高弟であり講道館四天王として知られる山下義韶や飯塚國三郎とともに会田も柔道教員に就任した(厳密にいえば、山下や飯塚よりやや遅れて就任)。会田の帰国時期から推察するに、国士舘専門学校が開設されるにあたり、嘉納から招聘されたとも考えられる。一九二九年一月三〇日に申請した国士舘専門学校設置認可申請書類中の「初年度採用教員予定表」には、武道(柔道)の専任教員として、山下義韶、見せ消ちされた嘉納治五郎の名と、その脇に嘉納の代わりに飯塚國三郎が記されている(同年三月一一日認可)。余談になるが、このことから専門学校開設計画当初、嘉納治五郎が自ら国士舘で教授する予定だったことが窺える(補足だが、専門学校設置認可を知らせる麻生太吉宛て柴田德次郎書簡〔一九二九年三月九日〕の中では、「主ナル教授及名誉講師」一覧に嘉納治五郎が「名誉講師」として、山下義韶と飯塚國三郎は「柔道教授」として記されている)。しかし、この時点では会田の名前は教員の一覧には表れず、実際には同年五月一二日の専門学校の教員追加申請で、会田は専門学校武道(柔道)教員として採用された(七月八日認可)。専門学校は先述したように、中等教員の養成、具体的には武道の教員養成が目的だった。その当時、武道教員養成校といえば、会田の出身校である高等師範学校と大日本武徳会武道専門学校、国士舘に限定されていたため、国士舘へも全国から生徒が集結し、会田はその育成指導にあたった。会田は国士舘のほかにも、一九三三(昭和八)年四月