ブックタイトル国士舘史研究年報第7号

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国士舘史研究年報第7号

国士舘史研究年報2015 楓?146柔道は今や世界中で競技され、オリンピックや世界選手権でも毎試合賑わいをみせる。今日にみるような柔道発展の会田の活動なくしてはあり得なかったであろう。会田は戦前から教員として国士舘柔道を支え、戦後の武道禁止の時代、国士舘激動の時代も学園に寄り添い、長きにわたり国士舘の教育・武道を支えてきた。本稿では会田彦一に焦点を当てる。会田彦一は、一八九三(明治二六)年四月一日に山形県南村山郡東沢村小白川町(現山形市小白川町)に会田彦太郎の長男として生まれた。一九〇六(明治三九)年四月には山形県師範学校附属小学校高等三年を修業し、一九一一(明治四四)年三月には山形県立山形中学校を卒業している。残念ながら、会田の幼少期を知るための資料がなく、柔道を始めるきっかけなどの経緯は知る術もないが、一九一六(大正五)年三月には東京高等師範学校体操専修科を卒業、一九一八(大正七)年三月に同校の研究科を卒業し、四月から同校嘱託として勤務、一九二〇(大正九)年五月に解嘱になっている。同年六月には会田は、イギリスにあるロンドン武道会(Budokwai)の講道館への正式な招請を受け、師である嘉納治五郎の撰により海外派遣されることとなり、同年夏季に開催される第七回オリンピックアントワープ大会に国際オリンピック委員会委員として出席する嘉納に伴って渡英した。会田二七歳のときであった。数多いる講道館の柔道家らを差し置いて会田が派遣された背景には、嘉納からの絶大なる信頼があったと思われる。海外派遣の目的は、欧州各国に正しい講道館柔道を普及させることだった。会田は約三年間イギリスに滞在してロンドン武道会を中心に数百人に柔道を教授し、ケンブリッジ大学やオックスフォード大学などの学生やサウサンプトンのカルショット海軍飛行学校にも出張して指導した。この時のことを、後年会田は次のように述懐している。紺碧の空に浮び立つ巨大な彫刻の様な近代都市、濃霧につゝまれるロンドンの姿よりも、文化的な生活様式の印象よりも強く私の心に残るものは、国境を越え民族を越えて、その心と心を魂と魂とを柔道を通じて結び得た思出である。(中略)私は嘉納先生の知己に感激し、一切の虚飾と阿諛を排し、自分の真心と技術の限りを尽して共に修行した。(「序にかへて」〔会田彦一『図解柔道』日本柔道研究会、昭和三一年九月一〇日〕)