ブックタイトル国士舘史研究年報第7号

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概要

国士舘史研究年報第7号

我が青春・国士舘中学校時代の思い出115の国民服、カバンはランドセル風で背中に背負っての通学だった。もちろんゲートルを巻いてである。学校にもようやく慣れた頃、優勢だった日本軍は各地で敗北、米軍の空爆は日増しに激しくなってきた。勉強どころではなくなってきたのである。勤労動員が下ったのはその頃だった。勤労動員が始まってからの記憶は曖昧ではっきりしない部分も多いが、学校に集合してから生徒一同隊列を組んで工場へ向ったのは覚えている。工場での作業終了後に、空爆により電車が全線ストップした時もあり、その時は全員で「必勝」の鉢巻きをして三三五五歩いて帰宅したこともあった。勤労動員は週に三日間くらいで、残りの数日は学習であった。我々の組が派遣されたのは小田急線「狛江」駅からほど近い「トモエ工場」だった。そこには若い工員さんにまじって、多くの兵隊さんたちが働いていた。慣れない手つきで旋盤を操作したが、作られた物がなんであったか、今でもわからない。しばらくして、兵隊さんたちの姿はなくなった。南方の激戦地へ送られたのだろうという噂が流れた。その頃、艦載機から飛び立った米軍機が「トモエ工場」の上空に飛来するようになった。猛烈な機銃掃射も大講堂内部(昭和18 年3 月 中学校卒業アルバムより)