国士舘要覧2025
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■ 歴史 創立者❖時代と人をつかむ ❖若き創立者 ❖生涯、教育者として 181917 年 国士舘開校式1965 年 舘長訓話( 前列左より頭山、野田、渋沢、徳富、後列最右に柴田 )1926 年 創立期の支援者福岡県那珂郡別所村( 現・那珂川市別所 )に生まれる。15 歳で上京し、苦学の末に早稲田大学専門部を卒業。在学時より同郷の頭山満、野田卯太郎、中野正剛らの知遇を得た。1917 年、26 歳で同志とともに国士舘を創立。国士舘を法人化するとともに、諸学校を設置して多くの青少年に門戸を開き、文武両道の精神を基本とする人材の育成に努める。戦災で校舎を失う苦難を乗り越え、国士舘の再建復興をはかり、中学校・高等学校・大学・大学院を擁する総合学園の基礎を築いた。教育にすべてを捧げた柴田の志は、今なお脈々と受け継がれている。1973 年、享年 84 で永眠。正四位勲二等瑞宝章。経済学博士しばた とくじろう[1890 . 12 . 20 - 1973 . 1 . 26] 国士舘の教育は「真の智識人」の育成にあり、新たな時代に相応しいその趣旨に多くの支援者を得ました。それは、従来の形式的な近代的学術の教授のみならず、軽視されつつある伝統文化に基づいた人格形成を主眼とした教育にありました。地位も財産もない若き柴田らは、将来の日本社会を担う国士舘の理想を説き、頭山満、野田卯太郎、渋沢栄一、徳富蘇峰らをはじめ、明治期に活躍した多くの有識者の支援を得ます。新時代を担う教育に賛同する支援者により、国士舘は教育の環境を整えていくのです。 国士舘を創立した時、柴田は弱冠 26 歳、無名の青年でした。貧しい農家に生まれた柴田は、幼少より困窮する人々を助けたいとの志を抱き、勉学のため 15 歳で単身上京し、牛乳配達など苦学の末に早稲田大学を卒業します。 当時の日本は、急速に近代化を遂げた一方で、伝統文化の軽視や貧富の拡大などにより社会は疲弊していました。柴田が抱いた志は、社会の歪みを改めたいという信念となり、同世代の同志たちが集います。そして 1917 年、次の時代を担う青年層への教育に着目して、新たな教育機関・国士舘を創立するのです。 柴田は、国士舘の創立以来、約 60 年にわたり教育の場に立ち続けました。大学の創設以降、学生・生徒も急増し総合学園へと発展を遂げる国士舘にあって、柴田は、経営への尽力とともに、毎週の舘長訓話や一人一人への卒業面接をみずから行うなど、個々の人間力を高める独自の教育を展開します。晩年、脳溢血を患いながらも訓話に登壇した柴田は、第一声で「学生諸君、会いたかったよ」と発し、その場の学生らは皆、涙したといいます。国士舘の教育に生涯を捧げた柴田は、厳しくも慈愛に満ちた教育者でした。 国士舘創立者教育に生涯を捧げた気魄の人柴田德 次 郎

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