国士舘大学キャンパス手帳2019
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 1970(昭和45)年、私学振興に尽くしてきた功績が認められた柴田德次郎は、正四位勲二等に叙せられ瑞宝章を受章。情熱を傾け、人生を賭けた国士舘も、私塾「國士館」の開校から数えて53年を経て、隆盛の時を迎えていました。 しかし、彼にはそうした輝かしい時代を満喫する時間は残されていませんでした。彼の身体は、病に蝕まれていたのです。 1973(昭和48)年1月26日、胃癌のため入院していた国立第一病院で、眠るように静かに息を引き取りました。享年84。信念と理想に生きた建学の父の訃報は、関係者全員に衝撃を与えました。2月3日に行われた大学葬では、各界の名士、卒業生の列が途切れることなく続きました。 国士舘大学の歴史は、柴田德次郎の歩んできた人生そのものです。建学の折りに掲げられた「国士」育成の四徳目である「誠意・勤労・見識・気魄」は、たとえ時代が移っても、キャンパスに集う「国士」の中に息づいています。 国士舘の門を叩く学生がいる限り、創立者柴田德次郎の精神は未来へと永遠に受け継がれていくことでしょう。苦難の時代を経て、新生・国士舘の発展 しかし、1945(昭和20)年の敗戦により、柴田德次郎と国士舘は、苦難の時代を迎えます。 東京大空襲により校舎の7割弱を焼失した国士舘は、文部省の指導もあり、校名を至徳学園に改称。再建を待たずに彼も公職を追放されてしまいます。 鶴川農場(現町田キャンパス)で畑を耕し、鶏の世話をして、暮れていく日々。彼はそうした苦渋に満ちた日常の中でも信念を捨てず、再び教育の場に戻ることのできる時を待ちました。 そして、公職追放が解除された1952(昭和27)年、復帰を果たした彼は、1953年に校名を国士舘に戻すとともに建学の精神に基づいた教育を再開しました。総合大学をめざして、7年間の空白を埋めるかのように精力的な活動を始めます。 1953(昭和28)年に国士舘短期大学を設置、1958年に国士舘大学を創設して、体育学部を皮切りに以後、政経学部、工学部、大学院、政経学部二部、法学部、文学部を次々と開設。1966年に総合大学の組織が完成しました。 柴田德次郎復帰後わずか14年で、新生・国士舘はめざましい躍進を見せたのです。未来へ受け継がれる建学の精神

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