国士舘大学キャンパスガイド2025
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 1970(昭和45)年、私学振興に長年尽くした功績が認められ、柴田德次郎は勲二等瑞宝章を受章。生涯にわたり情熱を傾けてきた国士舘は、創立から53年を経て、中学校・高等学校・大学・大学院を擁する一大学園となり、隆盛の時を迎えていました。 しかし1973(昭和48)年1月26日、柴田は闘病のため入院していた国立第一病院で、静かに息を引き取りました。享年82、死後は正四位に叙されました。2月3日に挙行した学園葬では、導師を円覚寺管長朝比奈宗源、葬儀委員長を元衆議院議長の石井光次郎が務め、各界名士のほか教職員や学生・生徒らの長い列が続き、故人を偲びました。1977(昭和52)年にはその遺徳を讃える銅像が大講堂前に建立されました。 国士舘大学の歴史は、信念と気魄に満ちた創立者 柴田德次郎の人生そのものです。創立期に掲げた四徳目「誠意・勤労・見識・気魄」の理念は、たとえ時代が移っても、現在まで脈々と受け継がれています。 国士舘の門を叩く学生がいる限り、創立者柴田德次郎の精神は、未来へと永遠に受け継がれていくのです。苦難の時代を経て、新生・国士舘の発展 しかし、1945(昭和20)年の敗戦により、柴田德次郎と国士舘は苦難の時代を迎えます。 戦禍により校舎の7割弱を焼失した国士舘は、文部省の指導もあり、校名を至徳学園に改称。再建を待たずに柴田も公職追放を受けて国士舘を離れることになります。 鶴川農場(現町田キャンパス)で畑を耕し、鶏の世話をして暮れゆく日々。柴田はそうした苦渋に満ちた日常の中でも信念を捨てず、再び教育の場に戻ることができる時を待ち、1952(昭和27)年に追放解除となりました。 復帰した柴田は、緒方竹虎・小坂順造ら各界名士の支援を再び得て再建を図り、1953(昭和28)年に校名を国士舘に復すとともに、創立以来の「国の役に立つ人材を育てる」という理念に基づいた教育を展開します。 1953(昭和28)年に国士舘短期大学を設置、1958(昭和33)年には国士舘大学を創設し、体育学部を皮切りに、以後、政経学部、工学部、大学院、政経学部二部、法学部、文学部を次々と新設し、1966(昭和41)年には総合大学へと発展を遂げました。 柴田復帰後の14年で、新生・国士舘はめざましい躍進を見せたのです。未来へ受け継がれる建学の精神

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