グローバルナビゲーション
ここから本文です
授業ルポ
「考古学とはどういう学問なのか」「日本にはいつ頃入ってきたのか」といった基本的な事項や背景を学んだ後、日本国内やアジアの歴史の中からいくつかテーマを設定し、実際に考古学的な勉強法で学んでいく。
時代順に20箇所近くの城柵が解説された後、「日本書紀など文献史料には載っていない重要な城柵がいくつかある」という事実が戸田教授の口から発せられた。「城柵造りは、日本海側から北上していき、内陸部や太平洋側にあるものは奈良時代に造られたものと思われていました。しかし近年の発掘調査で、六国史には載っていない城柵・官衛遺跡が多く発見され、その出土品などから、その説が間違っていることが分かってきたのです」。
たとえば宮城県仙台市長町で発見された郡山遺跡は、多賀城が造られるまで、陸奥国の国府的・鎮守府的機能をはたしていた施設であったことが推定されている。他にも名生館遺跡や権現山遺跡、城遺跡など、六国史に載っていない城柵がいくつかあるそうだ。
城柵の話が一通り終わり、続いて実際に蝦夷征伐がどのようになされたのかについての解説が行われた。戸田教授は、7世紀の阿倍比羅夫、8世紀の坂上田村麻呂の遠征を中心に、地図を使いながら具体的な侵攻について話を進めていく。
802年、蝦夷側の首長である阿弖流為(あてるい)が朝廷側に降伏。阿弖流為は、坂上田村麻呂の減刑の申し出もむなしく、朝廷によって処刑された。それにより、朝廷と蝦夷との関係は悪化。朝廷は志波城、徳丹城を建て、蝦夷征伐が続けられるのかと思いきや、朝廷の資金難や地方での統制力低下などにより、侵攻はストップされた。
「平安京に移ったとき、すでに中央は力を失いかけてきていて、桓武天皇以降10世紀頃からは、地方が中央の言うことをきかなくなってきた。武士団の結成なども行われており、もはや蝦夷征伐どころではなかったんですね。松本清張が書いた『点と線』という小説がありますが、城柵を造ることで点は制圧できたが、線を制圧することはできなかったということでしょう」と戸田教授は分析した。
こうした解説の中にも、阿倍比羅夫の阿倍家は外国との交渉や水軍を束ねる家柄であったとか、坂上田村麻呂は京都の清水寺を造った人物であるといった“プチ雑談”を交えていく戸田教授。その話題の広さに、学生たちも興味津々という表情で引き込まれていく。
この後、東北地方における覇権争いや奥州藤原氏の台頭、そして源頼朝による奥州藤原氏の滅亡までが解説されたこの日の授業。まるで上質な歴史ミステリーのように、聞く者の好奇心と探求心を刺激する90分間だった。