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概要

国士舘史研究年報第9号

国士舘の設立とその時代93育と生命主義の関連や、その生命主義と活学の関連も視野に収めたうえでの、学びと生活が相即する大正期の教育実践という枠組みからのアプローチも必要かと思われる。そのパースペクティブより捉えたときは、生命主義の思潮を背景とした新しき村のような実践が、白樺派的な国家を超越したアナーキーな実践であったことの対極に、国家との結びつきの下で構想・実践された国士舘の人間教育(=国士の養成)が位置づけられることも見えてくるだろう。このことは、同じく生命主義的な思潮を背景とする共同体志向の実践のなかでも、その先の方向性にはいくつかの経路があるということでもある。少なくとも大正期における私塾教育の形態をみる上では、同時代の新教育や玉川学園のような事例もあわせつつ、国士舘の営みを検証する意義は大きいと言えよう。(付記)本稿の成稿に際しましては、国士舘史資料室・熊本好宏氏のご推挽によります。記して感謝申し上げます。また本稿は、二松学舎大学私立大学戦略的研究基盤形成支援事業の成果を一部含むこともお断り致します。註(1)ここでの私塾とは、(後に本文でも触れるが)行政への届け出をしているのみで、文部省令下の正式な学校の要件を満たすものではない。以下、私塾の語はこの意味で用いる。(2)玉川学園ではまず玉川中学校が設立認可を受け、一九三九(昭和一四)年には「玉川塾」も正式に認可される。ここでの認可も届け出の意味と考えられる。(3)神立春樹「「二松學舍明治十年設立」の歴史的意義」(『三島中洲研究』三、二松学舎大学二一世紀COEプログラム事務局、二〇〇八年三月)四頁。(4)一八八三(明治一六)年に文部省による調査が全国各府県に通達され、その報告として一八九〇~九二年にかけて刊行された『日本教育史資料』には、各府県に存在した(する)寺子屋・私塾が掲載される。そのうち、例えば東京市内だけでも計六一一(私塾一二三、寺子屋四八八)が報告されている(巻八・上)。明治に入ってもなお経営を続けていた各機関の教授内容も、私塾では和・漢学、漢詩、筆道、珠算、和算、数学、漢医、西洋医学などが、寺子屋では読書、算術、漢学、詩歌など、