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概要

国士舘史研究年報第9号

国士舘史研究年報2017 楓?92まとめにかえて本稿では、私塾「国士館」の設立が近代学校史・教育史の上でどのような文脈に位置するのかを考えるため、大きく三つの方向から検討してきた。一つは、明治期よりの学校制度のなかでの私塾の扱い、二つは、大正新教育と呼ばれる教育思潮や大正生命主義といった時代思潮との関係、そして三つめは、国士舘のグランド・コンセプトとでも言うべき活学と、その前史・系譜関係の考察との、以上の三点である。これらの考察は大づかみであるため、今後は個々の論点(特に第二・第三の点)につき、より精度を高めた検証を加える必要はあるが、ここで一応のまとめを試みよう。私塾としての国士舘は、一九二五(大正一四)年には文部省令下の中学校(正則)として認可されていくことから、正確にはおよそ八年のあいだだけ存在したものではある。ただし、設立の理念として掲げる活学とは、ここまでみてきたように同時代の教育、具体的には文部省管轄の学校教育への批判を土台としていただけに、この理念を掲げる限りは文部省令下には属さない教育の形、すなわち私塾の形態を採ることは論理的にも必然であった。この活学とはある種の精神的な態度のことでもあったから、後々には正則中学や専門学校化するにせよ、その教育が活学の文脈に掉さす限りは、その私塾性、在野性が失われることはないとも言えよう。その精神を私塾経営に引きつけて言い換えれば、「私学を死学とさせないための活学」とさえ言いうる。一節でみてきたように時代を経るごとに国家と私塾の関係が抑圧さを増すなか、それでもあえて私塾を立ち上げていく上では、活学というコンセプトは、一方で常に現実批判を担保しうる概念という意味で、便利な、柔軟性に富むものであったとも考えられる。三つの方向性のうち第二・第三の視点からは、国士舘をみていくうえでは明治期以来の活学の系譜が一つ、大正期の新教育または生命主義的な系譜が一つと、少なくともこの二点をあわせみることができるのではないか、という仮説を提出した。活学とは、この二点を繋ぐキーワードでもある。この点を違う角度から捉えれば、明治期からの活学の系譜に属する分だけ、主に欧米の哲学や教育思想との影響関係を軸とする大正新教育に関する研究領域では、国士舘のような実践が視野に収められることはなかったとも考えられよう。ただしその教育実践の理念や実際の運営、また同時代性を考慮するとき、新教