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概要

国士舘史研究年報第9号

国士舘史研究年報2017 楓?90称して可なり) 11 (」と位置づけられる。つまり、円了による「活」の字が冠せられる営みとは、常に自然的な環境との関係で把捉される限りにおいてであり、自然から離れた瞬間に「死」に至るものだと言えよう。そのため活眼とは、自然との関係を視野に入れたままに物事を捉える視線のことだと解釈できる。このように「活」の字を盛んに用いる論者は、管見の限り円了に限られるとも思われるが) 1( (、その様子は晩年にまとめられた『奮闘哲学』(一九一七年・表⑨)のなかでも変わらない。その「活書と活学」の節では、学者が実際や実用を忘れて省みなくなるときは国の衰亡を招くこと、その予防の任は哲学者にあること、学者は実用に心を注ぐべきとし、時弊を矯正するためには活眼をもって活書を読み活学を修めよと、言わば「活」主義を掲げる。活眼、活識、活書、活学、活用は皆連続せる関係を有し、一を挙ぐれば他は相伴うて起るから、今日の死眼死識死書死学死用を医治するは、活の一薬に限ると余は断言して居る、此方針を取りて活学問、活仏教、活教育を唱へ、之を教外別伝の哲学と名なづけて置く、吾道一以貫之、曰活而已の主義である、国を富まし家を興すの道は此外にないと信ず) 11 (、活学についてまとまった議論を展開した円了は、彼自身が「活学者」であったと後に追悼されるが) 11 (、そのロジックやレトリックも含めた活学の主張は、必ずしも直接的な関係にはないものの、後の国士舘にも共有されていると考えられる。先にみた『教育的世界観及人生観』のなかに、死学死書に心を奪われた状態を西洋の文物に心を奪われているとの喩えがみられたが、それが国士舘では喩えの域に留まらず、一つの動機として活学の主張に組み込まれていた点(西洋の猿真似を批判する点)は興味深い。その他にも、以下の諸点で彼我の主張・認識は同期する。すなわち、①円了は教育を「天職」とも「天幸」とも述べていたが、国士舘同人においても「教育家諸君は、教育こそは天の人類に附与し得る最高の職務たるを知覚せざるか」、「諸君教育家は唯我独尊の地位にある者なり、天の美禄を食むもの也、人禄意とするに足らず、境遇憂ふるに足らず) 11 (」と、教育を天職という自然との関係でみなす論調。②同時代の教育を「形式のみに走り器械的方法を以て児童の精神を抑圧せんとするものあり、是の如きは