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概要

国士舘史研究年報第9号

国士舘史研究年報2017 楓?82力は生れないとする認識自体は同時代の新教育とも通ずるが、国士舘の特色としては、「膝を交へて親しく活学を講ずるの道場を開設せん) 11 (」とする点に認められよう。国士舘が目指す教育の姿は、「大正維新の大業を成就するの松陰塾に私淑せんとす) 1( (」のように、松下村塾的な私塾教育にある。一九一九年九月には麻布区笄町より現在の世田谷に移転するが、それに伴って柴田德次郎らは新館に移り、「塾生諸子と心のまゝに起き臥しつ、或は語り或は談し、或は耕し) 11 (」と構内での生活を始めている。私塾時代の国士舘の大きな特徴は、このように教育する場が即ち生活の場でもあったことにある。それは「国士村」と呼ばれ当時の新聞雑誌にも取り上げられるが、国士村は学生内から村長・助役・収入役・雑役を、教職員も含めて村会議員を選挙で決める自治制度を敷いていたという) 11 (。この教育の場は、批判の対象であった当時の教育と教師のような一方的な教授ではなく、共に学び且つ生活する関係として構想され、実践されるものであった。世田谷に移って間もなく刊行された雑誌『大民』(第五巻第一号)の「是れ活学の大道場」と題した文中には次のようにある。国士館は決して或る一種の限られた人間の養成所ではない、其講学の方法としては自修自発を旨とする、教師の口述を筆記する如き迂愚に倣はず、又妄りに不要の諳記を強要せず、詰込みにあらずして誘導にある。教師は命令者にあらずして相談相手である。同時に館生は自分の労力に依つて自活を期する、即ち学校附属三千坪の畑を耕すと共に別に或種の室内工業を営み、之に依て各自の生活費を弁ずるのである) 11 (。右の言葉を、例えば新教育の旗手であり実践者であった玉川学園の小原國芳の次の発言と比べるとき、教育に対して基調音を同じくすることは容易に読み取れよう) 11 (。成城以来、全人教育に個性尊重、自学自律に能率高き教育、学的根拠に自然の尊重、子弟間の温情に労作教育、生産教育に自給自足の教育[後略]制度が整うに、四角四面の建物が出来て、先生は高く教壇に、生徒は低く冷い机や椅子に去勢され、一枚の辞令で任免がなされ、ドコの学校にどの先生が転任して、どの校長の下にどの学級にどの子供と師弟となるのやら、義務教育という名は美しいとして