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概要

国士舘史研究年報第9号

国士舘史研究年報2017 楓?80られる。一八九〇年は「明治憲法」の施行と「教育勅語」が公布された年だが、その翌年には第一高等中学校で内村鑑三(一八六一~一九三〇年)の「不敬事件」が起きる。さらに一八九三年には東京帝国大学教授の井上哲次郎(一八五六~一九四四年)が『教育ト宗教ノ衝突』を著してキリスト教が日本の国体に背反すると述べるなど、この時期には国家主義の台頭と宗教(特にキリスト教)との軋轢が強まりをみせる。このような動向を前段としつつ、一八九九年八月三日には、文部大臣樺山資紀(一八三七~一九二二年)によって以下の訓令が発せられた。一般ノ教育ヲシテ宗教ノ外ニ特立セシムルハ学政上最必要トス、依テ官立公立学校及学科課程ニ関シ法令ノ規定アル学校ニ於テハ、課程外タリトモ宗教上ノ教育ヲ施シ、又ハ宗教上ノ儀式ヲ行フコトヲ許ササルヘシ) 11 (これがいわゆる「訓令一二号」だが、この訓令は同日に公布された「私立学校令」と抱き合わせであることは論をまたない。ここに改めて教育と宗教の衝突が生起するわけだが、この時多くの宗教系の学校は、正規の学校となり宗教教育を廃止するか、各種学校として非正規の学校のまま宗教教育を持続するかの選択を迫られることとなった) 11 (。さらに一九〇三年三月には「専門学校令」が公布され、ここに初めて専門学校が制度化されるに至る。それまで各種学校として非正規の位置づけで教育活動に従事してきた私塾も、ここまで概観してきた正規の教育制度が整えられていくなかでは廃止されたものが多いが) 11 (、高度な教授内容を持つ私塾のなかには、いずれ専門学校令にもとづく専門学校として文部省令下の正規の学校に改組していく事例も現れる) 11 (。現在の国士舘大学も、その直接的な淵源はここに由来している(国士舘専門学校の認可は一九二九年)。二 国士舘と「大正」という時代1 「大正新教育」と国士舘前節では明治期以降に私塾が置かれた位置づけについてみてきたが、明治政府による教育制度が整うにつれて、私塾(各種学校)の経営が困難の度を増していく様が見てとれた。その困難さは、資金面については措くにせよ、正規の学校としての恩典(上級学校への進学資