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概要

国士舘史研究年報第9号

国士舘史研究年報2017 楓?62葺き屋根と推定される。外装は下見板張りで、繋ぎ廊下、外便所ともに西面に出窓が付き、外便所の出窓が付いた部分は手洗いと推定される【図8】。大講堂は建築当初、教室として使用されるほか、様々な式典や講演会場として利用された。一九二三年九月一日の関東大震災の際は、大講堂を含む国士舘の構内は大きな被害を受けなかったため、施設を開放して都心からの避難民を広く受け入れた。また、一九四五年五月二五日、国士舘周辺はB二九爆撃機の空襲を受け、校舎のほとんどを焼失したが、大講堂ほか四棟(柔道場、剣道場、正気寮、時習寮)が戦災を免れた。大講堂は、関東大震災、第二次世界大戦、そして激動の戦後を経た一九五八年頃まで、築後三九年の間、建築時の姿が維持された。なお、戦中・戦後の古写真を比較してみると銅製の屋根樋が取り外された様子が見受けられ、戦時中に供出した可能性が考えられる。2 Ⅱ期:金属板葺き屋根への改修 一九五八(昭和三三)年頃以降Ⅰ期と間取りや規模は大きく変わらないが、屋根が銀色の金属葺きに改修された。一九五八年は国士舘大学が創設され、体育学部が設置された年であり、国士舘にとって節目の年であった。構内の整備に合わせ、屋根の改修も行われたと推定される。なお、同年、大講堂の東に五号館、一九六三年には大講堂の西に七号館が完成する。この頃の古写真には、まだ外便所が写っている。古写真を見ると、この頃の広間折り上げ格天井は築後四〇年を経て不陸が著しかったことが分かる。このため、一九六一年頃に改修されて現在に至っていると推定される。大講堂はこの頃、柔道などの道場としても利用されており、このため元々の廊下縁甲板張り床の上に畳が敷かれた。3 Ⅲ 期: 外便所解体 一九六四( 昭和三九)~一九六六(昭和四一)年以降一九六四年三月、大講堂南東の八号館が完成し、一九六六年一月には大講堂北の一〇号館が完成する。この一〇号館の建設に際し、外便所が解体されたと推定される。解体に伴い、廊下北西端の繋ぎ廊下境が物置へ改修された可能性が考えられる。