ブックタイトル国士舘史研究年報第9号

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概要

国士舘史研究年報第9号

国士舘史研究年報2017 楓?136会議を顧みて」(一)・(五)(一九二二年四月一一日・同月一九日)において、各国の「国民的自主」に基づく「国際協調」を「協調的国民主義」と捉え、「争覇的国民主義」から「協調的国民主義」へという世界の世論の「新思潮」が国際協調を謳ったワシントン会議成立の背景にあることを述べており、国士舘の講習会における「協調的国民主義」はこれと同趣旨の内容であったと考えられる。なお、第一回講習会の際に実施された朝日新聞社の見学は、緒方の協力によるものだろう。この時、国士舘の創立に貢献した徳富蘇峰が主宰する国民新聞社の見学も行われている。緒方は、東京朝日新聞社編集局長となった後、国士舘の教員による剣道・柔道の理論・実科と各界の名士などによる講演を組み合わせ、一九三一年七月に国士舘専門学校において開催するとした「第二回文武夏季大講習会」の講師にもなっており、国士舘が実施する教育の一端を担っていた。また、緒方は一九二五年四月に創設した国士舘中学校の校舎の新築に対する寄付を行っており、資金面でも国士舘に便宜を図っていた。この後も、緒方の国士舘への関与は様々な機会においてみられた。例えば、一九二七年三月二二日に開催された、国士舘創立前からの支援者であった野田卯太郎の追悼会の発起人の一人になっている。また、一九三三年から一九四一年にかけて、国士舘では学生、教職員や財団法人理事が、柴田の理事辞職を求める行動を起こした。この最中、一九三七年一月に蘇峰が起草した「国士舘憲則」は、柴田を「主盟」として国士舘の同志的結束を図るとしたものであり、署名には頭山などとともに緒方も名を連ねている。さらに、一九四二年一一月四日、世田谷で開催された国士舘二五周年記念式典には衆議院議員であった中野とともに出席し、祝辞を述べている。そこでは柴田を「率先垂範」の教育者であると称揚している。なお、中野は、一九四三年一〇月、東条英機内閣打倒を試みたことから警視庁に検束された後に憲兵隊の取り調べを受け、帰宅後に割腹自殺した。中野の葬儀委員長を務めた緒方は、柴田を介して、また書簡によって、蘇峰との間で中野の顕彰碑建立について相談をしている。緒方は、翌年一〇月二七日に行われた中野の一周忌法要において、蘇峰が寄せた追悼文を柴田が代読したこと、さらに翌日には蘇峰が撰文し、頭山の筆になる「魂」を冠した顕彰碑の除幕式が行われたことを書簡にて蘇峰に報告した。以上のような緒方の国士舘への関与や葬儀に際しての