ブックタイトル国士舘史研究年報第9号

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概要

国士舘史研究年報第9号

緒方 竹虎135体の運営に手腕をふるった。この後、一九四六年八月に公職追放の指名を受け、一九五一年八月、追放を解除された。一九五二年一〇月、すでに死去していた中野の地盤であった福岡第一区から衆議院議員選挙に出馬し、初当選を果たした。以後、第四次吉田茂内閣の国務大臣兼内閣官房長官(のち副総理専任)、第五次吉田内閣の国務大臣(副総理)となり、吉田の退陣後は自由党総裁に就任。内閣と政局の運営に手腕を発揮し、大物政治家としてその存在感を増していった。緒方の宿願であった保守政党の合同が紆余曲折を経て成り、自民党が結党されて同党総裁代行委員に就任した直後、一九五六年一月二八日、急性心臓衰弱により六八歳で急死した。二 戦前の国士舘との関わり緒方と国士舘との関わりは、国士舘の創立者である柴田德次郎の学生時代に遡るようである。一九六六(昭和四一)年、国士舘創立四五周年の記念講演における柴田の発言によれば、一九一二年九月、早稲田大学専門部政治経済科に入学後、学内団体である「筑前学生会」の会合において朝日新聞の若手記者であった緒方と出会ったようだが、当時の史料によって確認することはできない。ただし、一九四二年時点の緒方の回想でも「今から三十年程前」、すなわち一九一二年頃に出会ったと述べていることから、柴田が早大生であった時分に出会ったことは間違いないようである。なお、両者の邂逅に福岡県出身者のネットワークが作用したことは推測できる。緒方は、早稲田大学専門部在学時から同郷の頭山満の厚い信頼を受けており、柴田も在学時より頭山の知遇を得ていた。同じく柴田が在学時に知遇を得、一九一七年一一月四日、国士舘の開校式において訓話を行うことになる中野と緒方とは竹馬の友であった。緒方と柴田との出会いは、同郷の頭山や中野を介したものであったと思われる。国士舘に対する緒方の関与が史料的に確認できる最初は、学外者に対して教育の門戸を開いた国士舘夏季講習会の第一回・第二回の講師である。朝日新聞の政治部長であった緒方は、第一回目は「欧米の思想に就て」(一九二二年八月)、第二回目は「協調的国民主義」(一九二三年八月。当初予定は「露西亜我観」)と題する講習を行った。これらの内容については、残念ながら知ることができない。ただし、「協調的国民主義」については、『東京朝日新聞』における緒方の連載記事「華ワシントン府