ブックタイトル国士舘史研究年報第9号

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概要

国士舘史研究年報第9号

「泳道」129にこれほど条件の悪いスポーツがほかにあるだろうか。おおむね陸上のマラソンよりはるかに長い時間を必要とするわけだが、陸の上のようにまわりの景色が変わることはほとんどない。船上のスタッフ以外観衆がいるわけでもない。その中で同じ動作をひたすらくりかえすのだ。それはまさに自分との闘いである) (1 (。そんな心境の変化が頭をもたげたころ出会ったのがセールボード、いわゆるウィンド・サーフィンだった。もとより人並みはずれた運動神経の持ち主。わずかなキッカケでコツをつかむと、たちまちセールを風にはらませてボードを疾走させたのである。こうして中島は遠泳だけではなく、サイクリングやボードセーリングにも挑戦を開始した。だが、その新たな挑戦が、彼の思いすべてをも、文字通り「風とともに去りぬ」の結果を招いてしまうのだった。五 次世代への伝承一九九一(平成三)年二月一九日、思いもよらぬ一報が我々の耳に届いた。同日付けの『読売新聞』社会面の記事が、二月一八日午後一時一〇分ごろ、沖縄県・久米島北東岸の仲里村比屋定の海岸において、中島と木田嘉氏が乗り込み、沖縄~台湾間約七〇〇キロを伴走船なし・一〇日間で航海する予定で沖縄県・宜野湾マリーナを出港したボードセーリング用の「メントス号」が発見されたこと、また二人の姿はその近くに見当たらなかったことを報じたのである) 11 (。その後も今日に至るまで、中島に関する朗報はついぞ聞かれることはなかった。しかし、風とともに去ったはずの中島の意思は、彼の後継者によってしっかりとキャッチされ、今に繋がっている。中島がドーバー海峡横断に挑んでから一〇年後の一九八二年七月三一日、大貫映子氏がドーバー海峡横断に挑戦。イギリスのフォークストンを出発し、フランスのカレー南西のグリネ岬に到着。日本人として初の九時間三二分の公認記録を刻んだ。一九九四年八月六日、女性初の津軽海峡の遠泳横断に成功した尾迫千恵子氏は、そもそもがピアノ教師だった。彼女の場合、二七歳からスイミングスクールで習いはじめ、水泳に関しては「超」のつく遅咲き。しかし三〇歳で日本水泳連盟公認の第二種水泳指導員、三四歳で同第一種水泳指導員、四〇歳で日本体育協会B級水泳指導員、そして四九歳で同A級水泳指導員を取得。さら