ブックタイトル国士舘史研究年報第9号

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概要

国士舘史研究年報第9号

「泳道」119常に困難なことであった。日本海側から猛烈に吹き込む偏東風を順風としたために、渡航が可能な日は年に数えるほどしかなかったからだ。渡航とは言っても、対岸の港を目指して航海するのでなく、帆船であることから行き先は文字どおりの風まかせ。複雑な潮の流れによって本土への渡航に失敗した船が、江差や亀田半島に逆戻りすることもあったようだ。津軽半島側も同様で、北海道側の何処かへ「漂着」できれば幸運な方で、渡航に失敗した船が東北地方に逆戻りしたり、運が悪ければ太平洋側に漂着したということもあったようである。したがって半島最北端の三みん厩まや港は、順風の日を待つ「風待ち」の旅人で賑わっていた。結局、何の支障もなく順調な時でも、松前~江戸間の藩の参勤交代に要する日数は三〇日弱。海が時し化けていたり、春の降雨の多い時期ともなると、四〇日以上もかかったという。津軽海峡を渡るために順風を二週間も待ち、やっと出帆した記録もある) 2 (。この難所を乗り越えるべく、長い歳月をかけて、多くの「人間」と「自然」の戦いが見られたのである。二 少年の夢中島の生まれ育った地は、北海道松前郡福島町である。そう聞いて「あれっ」と思われた方は、かなりの相撲通に違いない。というのもこの町の出身として、第四一代横綱・千代の山雅信、第五八代横綱・千代の富士貢といった昭和の大横綱の名が連なっているのだ。中島は、「私が小学生の頃、千代の山の全盛期であり、遊びも、楽しみも少なかった北海道の田舎町の少年にとって、千代の山は偉大で憧れの存在でした」と回想している) 3 (。中島も中学・高校では相撲部に在籍し、相撲取りになろうと真剣に考えたひとりである。しかし彼の場合、相撲取りになるにはあまりにも体が小さく、角界の道を断念。同級生の岡部茂夫(千代の海)が出羽海部屋に入門するのを、指をくわえて見ているしかなかったという。一方、中学生時代から運動神経が抜群だった千代の富士貢は、走り高跳び・三段跳びの陸上競技で、「オリンピック選手もいける」といわれるほどの活躍だった。中島は以下のように回想している。