法学部の信義

編集部: 国士舘大学の法学部では、どのようなことが学べるのですか?

 国士舘大学の法学部は、2つの学科に分かれています。1つは「法律学科」です。今年で創設48年の歴史を持つこの学科では、憲法・民法・刑法などの基本法を中心に学ぶことができます。法的な知識やセンスを身につけ、法曹界はもちろん、一般の公務員や警察官など、広く社会で活躍できる人材の育成を目指しています。
 もう1つは「現代ビジネス法学科」です。こちらは今年で創設14年目になる若い学科で、とくに企業の法務関係で活躍できる人材育成を目指しています。ビジネスの現場で必要とされる知的財産法など、ビジネス関連の法律を中心に学ぶ学科です。世の中には数多くの大学があり、法学部もたくさんあります。その中で、私どもは法学部創設50周年の節目を迎えるにあたり、国士舘大学ならではの特長を持った法学部の学びを実践しようと心がけています。

編集部: 国士舘大学ならではの法学部の学びとは、どのようなものですか?

 国士舘大学には、すばらしい「建学の精神」があります。そこには日々の「実践」の中から心身の鍛錬と人格の陶冶をはかり、国家社会に貢献する智力と胆力を備えた「国士」を育てるという一文があります。法学部の学びも、この建学の精神に基づくべきものと私は考えています。
 そもそも国士舘の「国士」とは、国のため、社会のため、人のために尽くせる人という意味です。建学の精神にのっとって、「誠意・勤労・見識・気魄」の四つの徳目を身につけ、広く社会や人のために活動できる人間を創り、送り出すこと。これが私たち法学部の教育の目的です。
 法律は国や社会の仕組みを規定しています。法学部ではそこで適用されているルールを学ぶ。すると当然、それは「誰かのため」にやることになるわけです。自分一人だけで生きていくなら、ルールは要らないわけですから。法律という社会のルールを学び、人や社会のために役立つ人間になってほしい。そのために必要なことを、4年間でしっかり学んでもらいたいと思っています。

編集部: 具体的には、どのような学びの特徴があるのでしょうか?

 国士舘大学の法学部には、3つの特長があります。1つは、「人の役に立ち、社会に役立つ」人材育成を目標に掲げていることです。人のため、社会のために役立つ人材に育てるためにはどんな教育をするべきか。そこを念頭に教育のカリキュラムを組み立てています。
 2つ目は、少人数制教育です。法学部では1年生から4年生まで必修ゼミがあり、家族的な雰囲気の中で学んでいます。大学の法学部で、4年間必修ゼミのあるところは少ないと思います。学生と学生、学生と教員が密につながりあえるのも、本学の学びの大きな特長だと思います。
 3つ目は、論理的思考と現場体験を重視する教育です。進路が公務員でも、警察官や教員でも、ビジネスマンでも、社会に出ると法律と関わらない仕事はありません。法的な知識、論理的な考え方、問題解決力、そして交渉力を身につければ、どんな仕事にも対応できます。こういう人材をきちんと育てて送り出せば、日本の社会はもっとよくなる、そう私たちは信じています。

編集部: 先生の研究の専門分野は何ですか?

 私は民事訴訟法の分野を専門に研究をしています。民事訴訟法は六法の中の1つですが、同じ民事法の分野の中に民法があります。でも、その役割は、民法と民事訴訟法ではまったく違います。
 民法は、大雑把に言えば、一般市民社会のルールを規定したものです。一方、民事訴訟法は紛争が起きて初めて必要となってくる法律で、民事裁判の手続きを規定した法律なんですね。普通に暮らしていると、法的紛争や裁判に巻き込まれることはほとんどない。その分、民事訴訟法は日常生活と無縁のところにあり、なかなか理解しにくい。実は、民法と民事訴訟法はいわば車の両輪なのですが、学生にとってはそのことが実感できず取っ付きにくい法律といえます。これは笑い話ですが、民事訴訟法を略して「民訴」と呼ぶことがあります。これを「眠素」と書いたりするんですね。つまり、眠りの素。私たちの学生の頃から、こう呼ばれていました。それだけ学生にとっては勉強するのが難しい分野だということです。

編集部: その難しい民事訴訟法を教えるのに、何か工夫をなさっていますか?

 そうですね、できるだけ身近な例を挙げて、学生には教えるようにしています。裁判では、原告と被告という言葉を使いますが、私が学生に話すときは、私(福永)と学生(例えば田中君)と、実名を使って話をします。
 例えば、私が財布を忘れて来たとします。その日、人と飲みに行く約束があって、私は田中君に「財布忘れちゃったから1万円貸してくれない?」と頼みます。田中君はいい人なので「先生もしょうがないなぁ、来週になったら返してくださいよ」と言って1万円を貸してくれます。ところが、翌週になっても私は返さない。そこで田中君は「先生、先週貸した1万円返してください」と言います。すると私は「あれ、借りたっけ。覚えてないんだけどな」と言う。ここで私と田中君との間に貸金をめぐるトラブルが起きる訳です。さて、この紛争をどうやって解決しましょうか。と、まぁ、こういった感じで、具体的な例を挙げながら、民事訴訟法の話にもっていくわけです。こうすると、学生も多少は興味を持って聞くようになりますね。「民訴を眠素にしない」というのが私の講義の目標です。

編集部: 民事訴訟法を研究しようと思われたのには、何か理由があるのですか?

 民事訴訟法をやろうと思ったきっかけは、自分が学生時代に病気になったことです。腎臓病を患って、3ヶ月の入院と3年の投薬治療を経験しました。そこで医師によって対応が違うこと、とくに自分が服用していた薬の副作用に対する説明や処置が異なることに不安を覚え、そこから民事訴訟としての医療過誤という領域に興味を持ちました。自己の体験から医療過誤がいつでも起こりうるものであることを実感したわけです。そして、少し勉強してみて、医療過誤訴訟には3つの壁があることを知りました。1つ目は専門性の壁、2つ目は密室性の壁、3つ目は封建制の壁です。民事訴訟との関係では、その中でも専門性の壁について何か改善する提言ができないかと思い研究してみようと考えました。そこで、医療過誤訴訟における「鑑定」という問題を研究テーマとしました。そこから、専門家の責任の在り方や明確化についても踏み込んで考察したいと考えています。

編集部: ところで、先生はなぜ法律の道に進もうと考えられたのですか?

 そうですね。実を言うと、若い頃は弁護士になりたかったんです。弁護士になって、正義の実現のために、弱者を救済するために働きたいというちょっとキザな理想を抱いていました。たぶん本とかテレビドラマなどの影響なんでしょうが、弁護士という職業にそんな単純な憧れを抱いていました。
 それで法学部に入ったわけですが、始めのうちは専門用語がなかなか難しくて、法律の勉強に興味が持てませんでした。ようやく真剣に学びだしたのは2年生の途中からで、法律系のサークルに入ったのがきっかけでした。サークルといってもお遊び的なものではなく、とても厳しいところでした。入ってみて驚いたんですが、壁にびっしりと月曜から土曜日までの時間割が貼ってあるんです。まるで大学のカリキュラム並みに、憲法ゼミ・民法ゼミ・刑法ゼミなどと毎日朝から夕方まで勉強会がある。先生役は先輩方で、そこで私は徹底的に鍛えられました。先輩から、「その意味は?」「なぜ?」「どうしてそうなるの?」としつこく質問され、毎回それに四苦八苦しながら答えなければならない。まさにソクラテス・メソッドです。また、ただ先輩から教えてもらうだけでなく、自分でもゼミを担当し、後輩達に教えなくてはならない。だから必死で勉強をするわけです。これは、今から思えば、本当に貴重な体験でした。
 そしてまた、3・4年のゼミで指導を受けた先生との出会いも大きかったと思います。私のゼミの先生はとても厳しい方で、質問に答えられずに、ちょっとでももたもたしていると、「そんなことも分からないのか!」と言われて、六法全書が飛んでくるんです。教室に入ってくるだけで、みんなピッと背筋を伸ばすような威厳のある先生でした。こういう緊張感も、教育の場には必要なのではないかと思ったりします。ただ、私にはなかなかできませんが。

編集部: 他大学の学生と一緒に行う合同ゼミがあるとうかがいました。それはどういうものですか?

 合同ゼミは、全国から各大学の民事訴訟法ゼミの学生が集まって開かれる討論会形式の学びの場です。年に1度開催されますが、この秋(2014年)は国士舘大学で開催される予定です。
 合同ゼミでは、各大学が5~6人のチームに分かれ、対抗戦形式で討論会を行います。最高裁判所の新しい判例を題材にして、賛成の立場と反対の立場に分かれて、それぞれプレゼンテーションを行い、対戦チームと議論を交わします。かれこれ17・8年ほど続いていますが、当初2~4校ほどだったのが、いまは毎年13校ぐらいが参加する行事になりました。
 合同ゼミの大きなメリットは、いい意味での緊張感が生まれることです。国士舘大学の学生が参加するセッションでは、他大学の先生が司会を担当されます。どこの大学も同じですが、学生は自分のゼミの先生とは仲よくなっているので、あまり緊張感がないわけです。ところが合同ゼミでは、先生も対戦相手も、別の大学の人間です。オール国士舘として大学を代表して行くことになるので、学生も顔つきが変わります。直前になると、みんなもう必死に勉強して、準備するようになります。この緊張感が学生を成長させます。
 今年は国士舘大学でやりますが、3年生が討論会に参加し、4年生が合同ゼミの企画運営をやります。全国から300名近くの学生が集まってくるイベントで、段取りのすべてをこちらでやらねばならないので大変です。でも、それが学生にとって貴重な経験になるんですね。

編集部: 先生はドイツに留学をされていますね。あちらでは何を研究されたのですか?

 国士舘大学の在外研究の制度を利用して、2010年4月から1年間、ドイツ南部のフライブルク大学に、民事訴訟法の「鑑定」について研究するために留学しました。とくにドイツの民事訴訟における鑑定の役割りや、鑑定人という専門家の責任について調査してきました。ドイツ法に興味を持ったのは、英米法の勉強をしていてその思考方法に違和感を持ったのが最初で、同じ西洋であってもアメリカなどとは違うメンタリティがあり、実は根底には日本人に近いものがあると感じたからです。そもそも日本の民事訴訟法のルーツはドイツにあったわけで、明治時代に日本の民事訴訟法を作ったのもドイツ人でした。誤解を恐れずにいえば、ドイツ法の議論は原理原則を大切にし、その上にものの見方、考え方を展開していくようなところがあり、その辺が自分の肌に合うと思いました。でも、ドイツに行って勉強してみると、同じ民事訴訟でも、やっぱり違うところはいっぱいあるんですよ。そこがまた面白いところです。
 留学して強く感じるのは、文化も言葉も違う外国の地で暮らすことによって視野が広がったことでしょうか。最初は、言葉も不自由なうえ、習慣の違いに違和感を覚えることもしばしばでした。相手の言っていることがちゃんと理解できないことのストレスは大きいですね。ただ、私のドイツでの指導教授であるライポルト先生はすばらしい方で、そんな私に対してとても丁寧に何度も繰り返して説明して下さいました。お陰で、ドイツの民事訴訟法に対する理解も深まり、ずいぶん助かりました。ライポルト先生には、研究面のみならず生活面でも大変お世話になり感謝しています。留学を通して、研究者としてだけでなく教育者としても、とてもよい経験ができたと思っています。

編集部: 最後におうかがいします。法学部の学びを通して、どのような人材を育成したいとお考えですか?

 これは法学教育に携わる者としての私の生き方にも関わることですが、民法や民事訴訟法の条文の中に「信義誠実の原則」というものがあります。略して「信義則」とも言いますが、例えば民法は、権利を行使するときや義務を履行するときには信義に従い、誠実に行わなければならないと規定しています。法律というと、多くの人は杓子定規のようなものという印象を持ちますが、「信義」なんていったら道徳的な響きを持つ言葉ですよね。そんな言葉をわざわざ条文に書いているところに、私はとても意義があると思うのです。
 この民法や民事訴訟法にある「信義則」の精神は、国士舘大学の建学の精神にも通ずるものがあると思っています。「誠意・勤労・見識・気魄」という言葉は、みんなが利己的な価値観に偏りがちないまの世の中にこそ必要なものですね。
 国士舘大学の法学部ならではの教えがあるとすれば、建学の精神に基づき、「信義誠実の原則」を教育の柱にすることではないかと考えています。いまの時代だからこそ、信義を大切にし、誠実に振る舞える社会人を、数多く世に輩出していきたいと思います。

福永 清貴(FUKUNAGA Kiyotaka)教授プロフィール

●法学修士/愛知学院大学大学院法学研究科修士課程修了
●専門/民事訴訟法

掲載情報は、
2014年のものです。